剪り花

長雨のつぼみに重き四葩かな

五月に梅雨入りするのは十年ぶりらしい。

ということは以前にもあったということで、梅雨入りは六月という既成概念がこの十年で打ち砕かれた感じがする。もしかすれば例外的に早い梅雨入りというのが遡ればあるかもしれないが。
この週間予報では梅雨の前触れ程度にしか考えてなかったので、いきなりの宣言には正直参ったなあというところである。
梅雨の準備も整わぬうちにこれから二月ほどムシムシジメジメとした日々が続くかと思うと憂鬱になるが、いっぽうで雨を滋養とする紫陽花などの草花などが暗い庭の片隅に彩りを添えてくれるのであるから、それはそれでいいものではあるが。
その紫陽花もいまだつぼみで、開くにはいま少し時間がありそうである。今年は順調につぼみを着けているようだから剪り花にしてもいいかもしれない。

ペタペタ

あぢさゐの雨やる書架の金表紙

さすがに一日降られると倦む。

いつもの席に座りっきりでいると座りだこができてしまうのではないかとさえ思える。
畑へ出たり、庭に出たり、天気さえ悪くなければ少なくとも半日は外で時間をつぶせるが、こうも降りこめられるのは久しぶりで何をしていいか戸惑ってしまう。
本ばかりも読んでられないし、猫を相手にしようにも奴らはよく眠っている。家のうちを歩けば湿気で足裏、スリッパがペタペタして気持ち悪い。和室に逃げ込めばいやな湿気からは逃れられるが、すぐ横になってしまうし。
録りためたビデオを見てもいつの間にか居眠りしている。
よくよく暇のつぶし方を知らない人間のようである。

瑞々しい色

紫陽花に埋もれぬ色の傘買ひに

関東の方が一足先に梅雨入りしたようである。

昨日からの雨は夜になってもしとしと降り続き当地も梅雨入り宣言してもよさそうなものだが、今週はしばらく涼しい日がつづいて天気はまあまあだというからしばらくお預けである。というと梅雨を待ち望んでいるかのように思われるが、実際はあの湿気をふくんで蒸し蒸しする日が来る日も来る日も続くかと思うと憂鬱になるのである。
庭には洋紫陽花が真っ青なものといかにも洋風という派手な色彩のものが咲いているのだが、小さな鉢に育っている小紫陽花はもう時期は過ぎてしまっている。
雨がやまないが紫陽花を見たさに用もなく庭に出る。郵便受けをのぞいたり新聞を確かめたり、そのつど紫陽花を眺める。
雨を十分にふくんだがくや葉や、どれも生き生きとしている。

やわらぐ

紫陽花や隣家隔てる垣を越え

紫陽花も盛りは過ぎつつあるか。

いくぶん色に翳りが応じてきたようである。
だが梅雨といえば紫陽花。この時期の代表花として欠かせない。
剪り花にはもうできないが、庭にとどめて眺めるだけで鬱陶しさがやわらぐのである。

水を得た

白紫陽花灯る隣家の昼の留守

今流行りのアナベルという種類だろうか。

真っ白で軸に沿って咲き登るような、紫陽花としては珍しい形をした花が満開である。
いかにも洋風で派手やかな感じだが、共稼ぎ夫婦だから子供たちも学童保育やら幼稚園やらで昼間は誰もいずどこか淋しげである。
夜は夜で、暗い闇にぼおっと浮かんでいて存在は隠しようがないほどだが、やはり家族にはあまり見てもらえてないみたいでちょっと気の毒のようでもある。
代わって、わが家の老人どもが楽しませてもらってるわけだが、梅雨入りしたこともあってやはり生き生きとしてきたあたりはまさに紫陽花のようである。

紫外線

紫陽花の昼は萎れてゐたりけり
紫陽花の雨をほしげのなよ姿

いい天気が続く。

気温がもう30度を越える日が続くから、まもなく開花しようかという紫陽花の葉が昼の暑さのなかでぐったり萎れている。
庭に下ろしてあるから十分に根を下ろしているわけだけど、あのたくさんの葉から蒸発する水分に根からの吸収が間に合わないのだ。
夕方ともなると葉の骨格がしっかり戻ってくるから心配は要らないのだが、それだけ紫陽花には負担がかかっているということだろう。
その証拠に外に10分でもいようものなら肌がひりついてきて、紫外線の強さを身をもって感じるのだ。
紫外線はもう十分に強い。
日射しになれない今年はとくに用心しなければならないだろう。

梅雨のいのち

イタリアン切子に満たす洋紫陽花

年一回だけの出番。

大きなガラスの花瓶に庭の紫陽花を盛るのだ。
ヤマアジサイは三年目だけど、なかなか期待したようには花をつけてくれないが、どこの花舗にもあふれている洋紫陽花はたいていの土にもたくましく育つものだ。
大きな葉っぱ、大きな花の鞠を透明なガラスの器に盛ると、梅雨の命、紫陽花の命が茎もろともあざやかに眼前に迫ってくる。
花が弱れば、また庭の花を切ってくればいい。

問題は、猫どもがすぐにいたずらするので、置く場所をどこにするかだ。