日替り

梅のよく咲いて鳥来る日替りに
日替はりに鳥来る梅の飽かざるよ

今年は庭の梅の花が長い。

今頃になってもこの冬の寒さを上回る冷えが続くせいだろうが、こんなことは今までなかったような気がする。
蕾状態のものも全体の半数ほどあり、この分では二月はおろか三月上旬までは確実に咲き続けるような気がしてきた。
香りも傍に寄らねば分からないほど微かな種類であるけど、それがかえってこの木の奥ゆかしさが感じられて、今まで素人のさんざんな剪定に痛めつけられてきた割りにはよく頑張ってくれたと思う。
おかげで、毎日のようにやって来る鳥を楽しめる。
ここんところはツグミがよく来るようだ。

お詫び
文法ミスで句の部分が表示されていませんでした。最終確認しなかったのが原因でご迷惑をおかけしました。

寒波寒波

荒鋤の田の面累々薄氷

春の雪が解けて田の土は真っ黒である。

切株はまだ完全に鋤込まれてはおらず荒鋤のままだが、その窪み窪みに氷が張っている。
氷が張らなくなって、虫が這い出るような頃ともなると、あらためて田起こしが始まるのであろう。
ただ、田植えが遅い盆地にあっては、その田起こしの時期も定まらないようで、毎年気がつけばいつの間にか終わっているような感じがする。
いずれにしても、この寒波が終わり、何度か寒暖を繰り返しながらやってくる本物の春が待ち遠しい。

白い青垣

多武峰古りにし里の春の雪

盆地内では積もらぬが、周囲の青垣の山は真っ白である。

長谷寺を過ぎて隠国、吉隠(よなばり)の辺りに来ると田んぼも畑も真白。宇陀への入り口である西峠近くまでくると道路にも雪が残っていた。宇陀・榛原に入った途端十センチほど降った形跡がある。同じ奈良でもちょっとした山や峠でも気象条件がこれほど違うとは。
多武峰も真っ白。
昔、天武がこんな歌を藤原夫人宛に詠んでよこした。

わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 万)巻2−103

藤原氏の里に住む夫人に、
「飛鳥の宮には雪が降ったよ。そちらの古い里はこれからだね」
それに対して、夫人は、

わが岡のおかみに言ひて落らしめし雪のくだけしそこに散りけむ 同巻2-104

「生憎ね。こちらの神に頼んで降った欠片がそちらに散ってしまったのでしょう」と軽く返したという。

「おおはら」は「小原」と書いて万葉文化館あたりをさすという。その辺りが、藤原氏の生誕地とされ、生母の墓もある。
今日みたい雪の日に詠んだのかな。

今冬一番

平日の間引き運転冴返る
朱印所に応答あらず冴返る

晴れてるがどこか寒い。

風の所為だろう。
ただ、予報では70/60の確率で雨または雪なのに、一向に天気が崩れる様子はないのが助かるが。
この寒さは今冬一番で一週間ほど続くと言うから、まさに寒が戻ったようなものだ。
この分では、明日も同じような季題を詠むことになるのかもしれない。

短い雪景色

梅枝のより梅らしく春の雪

雪が雨に変わって、みるみる雪が解けていった。

解けるまでは、水分をたっぷり含んだと思われる雪が、梅の花や枝に積もっている姿は、やはり梅は梅らしい形をしている。
地面がすっかり雪に覆われて、餌を探すのであろう、ツグミが珍しくその梅の枝にきてあたりを見回していたが、諦めたようにまたどこかへ去って行った。

雪が解けて一安心かと思ったら、また明日から明後日にかけてこの冬一番の寒気、荒れ模様だという。

枝垂はまだかいな

段丘を屏風に野梅開ききる

「野梅(やばい)」とは梅の種類であるが、俳句ではもちろんそんな厳密な使い分けはしない。

つまり、品種、色、形などは問わず、「野」にあるごとき「梅」を指すようである。したがって、梅林とかきちんと専門家が手を入れた、管理された梅とは異なる、ちょっと距離をおいたものを漠然と言う場合に使われることが多い。

そう言えば、うちの白梅はだいぶ開いてきたが、紅の枝垂梅はいつもより花期がずれてまだ蕾は固そうである。

石光寺の花々

三椏の芽の銀にもたげ上ぐ

今日は寒牡丹で知られる石光寺へ吟行。

もう寒牡丹も終わっているのではないかと案じてたら、案に相違して名残の様子を楽しむことができた。寒牡丹は盛りを詠まれることは多いが、今日のような状態をいかにうまく詠めるかも問われた日だった。

咲ききって終の一輪寒牡丹
染寺の奥へ奥へと寒牡丹

が精一杯。「染寺」は「石光寺」の別名で、あたりは昔染料が採取できる土地柄だったこと、當麻寺の曼荼羅を織った中将姫がこの寺の池で糸を洗い、桜の木に掛けたら五色に染まった伝えから名づけられている。

庭園は花の札所の名に恥じず、蝋梅に梅や万作など、いろんな花が咲き、香りを放ち、また一方で芽ぐみ始めた草木で満たされていた。

望外の香に遭ふ庭の春浅し