花の都の花衣

花衣異国の言葉を交わし居り

昨日に続いて今日の季題も「花衣」。

今日は今を盛りの桜を求めて京都を訪ねた。
円山公園から清水寺に向けて、二年坂から三年坂、そして舞台に近づくにつれやたら和装の人たちが目立つ。
最初は「桜に似合いの花衣」と喜んでいたが、どこかが、なにかが違う。
そう、顔つきで日本人かとばかり思っていたのに、半分くらいの人たちがアジア系の言葉を話しているのだ。
どうやらどこかで観光客相手に貸衣装商売をしてるらしい。
なかには、完璧に欧米人とおぼしき大柄で体格の立派な女性を見かけたが、丈もサイズも問題なく用意されてるとみえ、あの長い坂をぐいぐいと登っていくのには圧倒されてしまった。

白川の辰巳橋から。このあとアオサギが目の前に着水し、人目も気にせず堂々と足下の橋をくぐっていきました。

同族の絆

祭文字染め抜く法被の花衣

地域の役員だろうか、揃いの法被を着た一団が花見の宴たけなわである。

あちらでは野球チームのユニフォームグループだ。
同じグループに属する人間同士にとって、こういうハレの席ではとくに親近感が強まるものらしい。
結構、おおいに結構。
普段のしかめ面も忘れておおいに盛り上がるがいい。

寂しい堰堤

野暮用のつもりで出でて桜狩り

奈良はこと桜に関しては面白い県である。

大和川を本流にした支流があれほど多いのに、堰堤に桜が植えられているのは稀なのである。
たまにあっても何十本も連なっているわけでなく、ところどころ10本ほどが植えられてる程度だし、そのうえ両岸に植えられたところなど殆どないといってよい。
桜の堰堤というのは両岸の桜がその枝を接するばかりにアーチを形成してはじめて桜の名所になるのである。
したがっていかんせん大河では趣も大味になってしまうのだが。

奈良の堰堤に桜の名所がないのは、寺社仏閣などすでに名を得た名所に遠慮して新たな桜名所を作るのをはばかっているためではないだろうかとさえ勘ぐってしまう。
実際には昔から氾濫をおこす川の周りには人家が少なく、桜など植えてもしょうがないというのもあるだろう。ただ、そんな畑に囲まれた川にも桜はおろか柳もなんにも植えられてない。あるのは、堰堤にではなく河原にであり、それも上流から流れてきた種や苗が根づいたものだ。およそ殺風景といったらこのうえない。自転車専用道も同じで走っていても実に味気ない。

また、「奈良の寝倒れ」という言葉がある。
要するに、あまり外を出歩かない県民性がある。
おらっちの川を桜の名所にして人を呼びたいなどという酔狂な人も少ないのだろう。
なにしろ一人あたり最も飲食店の少ない県なのである。そんな風に数字で聞かされるより、実感として外で食ってみたいと思わせる店がまったくないのだから。

登廊399段

山茱萸やしばし登廊の歩を休む

長谷寺では桜の満開にはまだ4,5日ありそうだったが、かわりに山茱萸(さんしゅゆ)の黄色い花が目を楽しませてくれた。

ほかにも、本堂に背を並べるかと思うくらい背の高い木蓮が雨の中で白い姿を浮かべていたし、「花の御寺」の面目躍如である。

登廊は399段あると聞いたが、途中山茱萸などが目を楽しませてくれるうえに(間もなく登廊に沿って牡丹も)、一茶などの句碑や歌碑などもあって歩を休めることができたので苦にはならなかった。

牡丹の芽がわずか色づいてきました。今月下旬頃には開花するかな。

雨の長谷寺

ひとしきり雨の雫や花冷やし

花冷えの雨だった。

はっきりしない天気だったが、明日に延ばせば休日で長谷寺は混んでしまうのをおそれて出かけてみた。
しかし、途中から雨に追いかけられるように降られるし、行く手の雲行きもおかしい。
着いた頃には本降りで、ようやく開いたばかりの花冷やしの雨となってしまった。

本堂(相の間)より同礼堂に向かって

本堂の十一面観音さん、本長谷寺、五重塔と順に巡ったあと、二本(ふたもと)の杉があるというので雨で滑りやすくなった石畳の道を注意深く降りてみた。ここはメインの登廊から100メートルほど外れたところにあり、今の山門が完成するまではここら辺りが本堂への登り口であったのかもしれない。

二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや・・・・・玉鬘巻

登廊をあがったところに芭蕉や一茶の句碑もあったりして。

春の夜や 籠り人床し 堂のすみ ・・・・・芭蕉

此裡に春をむかひて  「我もけさ 清僧の部也 梅の花」 ・・・・・ 一茶

他に紀貫之の歌碑「人はいさ 心も知らず 故里は 花ぞ昔の 香ににほひける」、高浜虚子の句碑「花の寺 末寺一念 三千寺」があるらしいのだが、それはまた次回の楽しみにとっておこう。なにしろ花のお寺として次は牡丹が有名なのだから。

露地を舞台に

照る花の塀よりこぼるる露地の夕

古い町家が並ぶ露地を歩いていると、ふいに目の前に夕陽に照らされた桜の木が浮かんできた。

露地は既に夕の帳が降りかけていたので、まるでそこだけスポットライトが当たっているよう不思議な世界だった。

季節の色を食う

一見が坐る止まり木桜海老

随分昔のこと、駿河湾を臨む街に出張したことがあった。

季節もちょうど今時分であったろう。
夜の部の料理屋さんで、それはそれは新鮮な桜海老が出された記憶が残っているからである。
同席した人とか、店の名前は当然忘れているが、熱々の掻き揚げの見事な紅色は忘れられない。