戸惑っている

言葉なく鹿煎餅を売るマスク

奈良公園の風の吹きっさらしで鹿煎餅を売っている。

煎餅を買うのはたいがいが外国人のせいだからかどうか、売り子はおおむね無口である。
へたすると、客の顔もろくに見てないのかもしれない。
そう言えば、概して奈良の人は静かである。ものを売るにも大きな声を張り上げるのをみたことがない。隣県に賑やかな都市があって、それとは好対照をなしている。何をアピールするということもなく、どちらかというとなにかにつけて「待ち」の姿勢なのである。
ただ、奈良らしいところはちゃんとあって、どこかの古都のようなよそ者への警戒心もあらわでなく、来るものは拒まない点であろうか。

急な観光客増も、喜ぶというよりは戸惑っている、というのがいまの奈良なのかもしれない。

虚子を恨め

火事跡の消火器こともなかりけり

自分で出しておいてなんだが、この「火事」という題は難しい。

今月の同窓生句会の兼題である。
「火事」がなんで冬の季題かどうか分からないのは、これを季題と定めた虚子すら時代的にもうはっきりとしなくなってきたことを認めている。

「『火事』というものは季題ではあるが、他の季題に較べると季感が薄い、ということは言えますね。一体火事という季題は、我らがきめたものですし、火事はいつでもあるが、殊に冬に多いから、というので冬の季題にしたのですが、季感は従来のものよりも歴史的に薄いとはいえる。だからこれは季感のない句であるという風に解釈する人があるかも知れぬ。(中略)そういう人は季題趣味を嫌がっている人ではないですか。だが俳句は季題の文学である。……」(岩波文庫『俳句への道』)

とにかくそう決めたんだから、文句言わずに詠めというわけだ。
そういう理由だから、同窓生諸兄姉よ、幹事を憎まず虚子を憎んでください。
どうかして、冬感が出ればいいんですけどね。それを意識するとさらに難しくなる。

夜目にも白く

お悔やみを述ぶ息白し通夜の客
連れ立ちて通夜の後尾に息白き
通夜席に知る辺見つけて息白く

通夜という席で言葉を交わすのはせいぜい受付の記帳のときくらいだ。

あとはご焼香までひたすら沈默の時間となる。
そういうとき通夜の列の中に顔見知りを見つけたりすると、ほっとするところがある。
手短に挨拶を交わし、故人の話から、ときには自分たちの近況を確かめ合ったり。
席を辞したら、駅前辺りで旧交を温め合ったり。
屋台ではおでんの湯気に包まれて、家路につく頃には息はいっそう長く引いている。

老醜など

おのが老悟りきったる背蒲団

「せなぶとん」。と言っても今は知る人も少ないだろう。

我々世代だってちゃんちゃんこなら知ってるが、「背蒲団」なんて着たことないし、まして「負真綿(おいまわた)」などは見たこともない。
上着と下着の間に入れた「負真綿」がのちに進化して、袖無のように羽織るようになったのは、現代版で言えばさしずめユニクロなどで売られている極薄の「ダウンベスト」だろうか。
背蒲団は綿入りの薄い蒲団を背中に背負えるように紐をつけたもので、背中の曲がり掛けた老人にはぴったりくるものだ。

ユニクロファッションを老いも若きも何の衒いもなく、気取らずに着られるようになったいいご時世とも言えるが、若い人だってパジャマ兼用風トレーナーで平気で街に出てくる時代だ。ファッションから恥じらいというものが失われた現代では、背蒲団で外出したところで、だれに遠慮があろうか。いや、意外に若い人には最新ファッションに見えるかもしれないぞ。

生徒らに知られたくなし負真綿 森田峠

に触発されて。

手向山冬紅葉

管公の腰掛石の散紅葉

ただの石や木なのに、有名人が座ったり、掛けたりすると、いかにもそれらしくなる。

腰掛け石だの鞍掛、笠掛松というわけだが、奈良手向山八幡にも管公腰掛け石なるものがあって、脇に管公歌碑が建立されている。実際には小さな鳥居とともに正面に祀られているのが歌碑で、腰掛け石は脇にある小さな石だ。
管公と言えば梅だが、ここには頭上は立派な山紅葉だ。勿論管公歌碑にある、

このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

からきているわけだが、ここは半日陰とあって長く紅葉が楽しめるが、誰となく賽銭を置いていく人があるのか、その賽銭にも紅葉が降っているのだった。

奈良町の蔵元

うかと出て師走の街は定休日
蔵元とあつて酒粕完売す

奈良町の名だたる観光名所が定休の月曜、ある路地に小さな酒蔵が営業していた。

奈良町のど真ん中ゆえ、まさかここで酒を造っているとは思わなかったのだが、路地に面した格子には「新酒出来ました」だの「酒粕年内分の予約完了」の貼り紙がしてある。
酒造りというのは注文を受けてから始めるのではないので、あらかじめ決めていた計画に従って仕込んでいくのだろうから、人気があるからといって急な増産には応じられないのは当たり前だが、その酒粕が予約販売されていて、しかもそれがひと月も前に完売というのだから、よほどここの酒粕を気に入っている客が多いのだろう。

酒が飲めず、どちらかと言えば苦手な家人なので、滅多に粕汁や酒粕鍋にお目にかかることがないが、冬ともなると焼いてほくほくのこいつを、砂糖をまぶしておやつ代わりに食べた昔が懐かしく思い出された。

補)あとで調べたら醸造元は春鹿というものらしい。
ホームページにある醸造元がオーナーの「今西家書院」というのが隣地にあって、室町初期の書院造りという重文らしいが、ここも月曜日は定休。
急ぎ句会場へ向かう途中でゆっくり拝見できなかった蔵元や書院は、また別の機会に再訪してみよう。

The last leaf

本坊の一葉残れる紅葉かな

今日は久しぶりに随分歩いた。

十二月恒例の奈良町吟行は、興福寺を経て浮見堂で鴨、かいつぶりを観察。ここで一時間費やしてUターンし奈良町を下る。JR奈良駅近くの会場まで、万歩計にしたら1万はおそらく歩いたろう。
いつものように材料はいくらでも転がってはいるが、なかなか句の形にはなってこずイライラは募るばかり、会場についても苦吟悶々して締め切り時間ギリギリの投句。

幸いにも評を頂いたもののうちの一つが掲句である。
吟行とはいえ、今日は必ず一つは「冬紅葉」を詠もうと自分に課していて、通りかかった興福寺本坊とある意外に小さな坊に見つけたものである。
しかも、桜古木の文字通り「最後の一葉」で、高校の文化祭にオーヘンリーの「The last leaf」の英語劇をやったことが急に蘇ってきて、妙に去り難く一句絞り出すことができた。