初鶯法華法華と経知らず
遅ればせながら、初音を聞くことができた。
しかし、盛んには啼くものの、「ホーホケキョ」の「キョ」がまだ出せないらしい。「ホーホッケホッケ」と繰り返すばかりであった。
先輩に習って、もう少し勉強して出直してこいと声をかけてやった。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
初鶯法華法華と経知らず
遅ればせながら、初音を聞くことができた。
しかし、盛んには啼くものの、「ホーホケキョ」の「キョ」がまだ出せないらしい。「ホーホッケホッケ」と繰り返すばかりであった。
先輩に習って、もう少し勉強して出直してこいと声をかけてやった。
春霖や標準木の代替り
気象台が移転して十日ちょっと。
旧気象台構内にあった標準木、副標準木もお役御免となり、新しい標準木、副標準木に世代交代となったが、開花予想はとくに変化がない。
というのも、現地に植樹してから4,5年かけて大きな差がないように育ててきたからだと言う。
梅やほかの標準木も同様だろうから、気象台の引っ越しというのはなかなか準備が大変なのだろう。
だが、これだけ完璧を期して移転を果たしても、やっぱり落とし穴はあるらしい。
引っ越し二日目、どうしたことか機器故障かなにかで観測データが取れないというアクシデントがあり、日をまたぐ比較ができなくなった。と言っても、こちらはとくに困らないが、平均気温をとるとかする場合、穴が開いたらどうするんだろうかと他人事ながら気になったりしている。
一笑にふして治聾酒ほしにけり
治聾酒に意気軒昂の耳順かな
まね事と下戸に治聾酒注ぎにけり
治聾酒のすすめやうなく母の下戸
「治聾酒」。春の社日に飲むと聾が治るといわれる。
「社日」とは産土神を祀る日のことで、春と秋の二回ある。春のものを「春社(はるしゃ)」、秋を「秋社」と言う。
中国から伝わった風習が、古くからの土地の神、山の神、田の神と深く結びついたものとされ、春には五穀豊穣を祈り、秋には収穫を感謝を表していた。
春分の日、秋分の日にもっとも近い「戊(つちのえ)」が、それぞれ春社、秋社の日となる。今年は3月22日、9月18日に当たる。
昨今では、彼岸のほうが注目されてしまい、社日の行事を大切に守り継がれているところも少なくなったようだが、祈りや感謝は御田植祭や秋祭りなど、形を変えて地域地域でさまざまな行事に引き継がれていると考えてもいいだろう。
さて、治聾酒だがそのいわれは定かではない。医学、医術の及ばない病気や体の衰えからくる様々な疾患から逃れる術もなく、ひたすら神や仏におすがりする以外なかった時代、産土の神に捧げた酒をいただくことで少しでも和らぐことができるならという、素朴でささやかな願いがこうした形で生き続けてきたのだろう。
目にいい水とか、患部に当たる部分を撫でたら治るとか、俗信として分かっていながら、現地に立てばそういうものは我々は何の疑いもなく受け入れてしまう民族である。そのうちの一つが歳時記に残っているのだと思えばいいだけである。
難聴がすすんで、しまいには全く聞こえなくなったしまった母を思い出す。
陽炎の近づき犬を引いてゐし
陽炎やことに沖つの滑走路
陽炎を踏み換へ歩み初めの児
陽炎の大地にしがみつき老ゆる
春寒というのは昨日までだったのだろうか。
ことのほか暖かい日となった。
一方で、杉花粉ピークだとか、少しの間出ただけなのに衣服に着いてくるのか、くしゃみや鼻のむずむず、目のしょぼしょぼが止まらなくなくなるので、外出がおっくうになる。
おそらく今じぶん野には句材があふれ、春の句を詠むチャンスだと分かっているだけに悔しい。間もなく杉から檜に入れ替わると言うから、しばらくは耐えるしかないのだろう。
ということで、今日も机上で詠んでみる。
春分の日妻に問ひ暦に問ひ
春分の正午の潮を曳く帆かな
春分の正午を告ぐる時報らし
春分の国旗はどれも奈良交通
春分の朝比奈峠海明かり
今年は三連休になるという。
曜日や休日が意味を持たない身分となって久しい。
だから、祝日にしても、建国記念のように月日で固定している祝日なら確認するまでもなく意識の中にあるが、振替休日制度導入によって刷り込みから消えてしまった祝日などはカレンダーをいちいち見なくては分からなくなってしまった。成人の日も、敬老の日も、体育の日などがそうである。
いっぽうで、やはり毎年暦を見なきゃ分からないのに春分の日、秋分の日がある。
思わぬところで墓参り渋滞に巻き込まれる日なので、墓参りするにしても、外出するにしても、避けたい日ではある。
老猫の命日であり、今いる猫たちの生まれたのもこの頃であった。
この紅が牡丹支ふる芽なりけり
骨格のはや逞しく牡丹の芽
骨格の片鱗はやも牡丹の芽
園丁の爪先黒し牡丹の芽
ほぐれては止まるを知らず牡丹の芽
九度山にブーム去ったり牡丹の芽
登廊の途中でかへす牡丹の芽
紅というか、深紅というか。
あの牡丹の芽である。
大きくて豪華で重い花を支えるためには体躯もしっかりとしてなければならない。そのせいか、芽もいかにも逞しく、千手観音さんのように枝をたくさんつけていて、これらを伸ばしながらぐんぐん成長していく。そのはじめの逞しい姿というのは、むしろグロテスクな印象さえ受けるほどで、これがあの大輪の女王花を咲かせるわけだから、まるで民話の「鉢かつぎ姫」の主人公みたいなものである。
鉢かつぎ姫は、子供のできない夫婦の夢に出てきた長谷観音から女の子を授けられたが、その際その子には鉢を被せるようにというお告げがあったところから物語が始まる。
その長谷観音では、あとひと月もすれば、鉢を脱いだ牡丹の盛り。牡丹は見たいが、あの人波を考えると。
ところで、「鉢かつぎ姫」は本当は「鉢かづき姫」だそうである。「かづき」は「頭にかぶる」という意味の古語「かづく」(被く)の活用だとか。
涅槃西寝釈迦の山を吹き颪す
涅槃西波動の底に海を嗅ぐ
ようやく風が優しくなってきた。
明日は穏やかな日になるという。
今日は青畝の本歌取りのようなものです。