剥がれ落ちる

梅一片降りて残像としもなく
梅一片散華ともなく降りにけり
見とがめるもの誰あらん梅散華
人知れず梅の散華のありにけり
つとありて梅の一片落ちにけり

桜は「はらはらと」散るという。

人はその散るさまも含めて桜を愛しいと感じている。
対して春の先触れとなる梅はどうか。梅は人の見てないところで散るのである。しかも一片ずつ時間をかけて静かに散る。梅を散るところなどを詠んだ歌や俳句が少ないのもそのためである。言わば気がつけばいつの間にか花が少なくなっていて、あるとき見たら多くが萼だけになっているのに気づき、ああもう梅は終わりだ、と思ってお終いなのである。梅の散るのを惜しむ人はまずいまい。
今年の庭の白梅は、1月下旬から咲き始めて、今日までまだ二分ばかり花を残している。こんなに長い間咲き続けているのは珍しいことである。たまに庭に目をやるとき、さらにまたたまに梅が散るのを見ることがある。同時にいくつも散るのではなく、一片ずつである。散るというよりは剥がれるという感じだ。

申告済んだ

引鴨や釣桟橋の朽ちしまま

税務署の帰りに平城京大極殿北の水上池に寄ってみた。

ここは、奈良の探鳥ファンには欠かせない池で、鴛鴦はじめ何種類もの水鳥がやってくる池。
だが、三月も半ばとなると、さすがに鳥は少なくなっていて、種類も小鴨などごくわずかであったが、それでも池の真ん中で群れを作っている様子など引くタイミングを伺ってもいるようだった。
北風が強くて、ウオッチャーもほとんどその姿を見られず、情報も得られないので早々に退散することにしたが、次来たらもう渡りの鳥たちは見られなくなるだろう。

桜の切り紙

切り貼りのどれも低きに春障子

覚えておられる方も多いだろう。

桜の形をした切り貼りがある障子。少し破れたくらいなら花びら形にカットした紙で繕ったものだ。
今では障子用の紙だって簡単に手に入るし、糊もわざわざ手作りする必要もなく、張り替えもずいぶん簡単になったことだろう。
春ともなれば去年張り替えた紙もうっすら灼けてきたりするものだが、強くなった日がその分あまりある光を通してくれる。
切り貼りの部分もそれだけくっきりと分かる。
障子の低い部分だけつぎが当たってるところをみると、破ったのは猫かあるいは小さな子供の仕業か。

浪速の春

春場所や新弟子みやうみまねから

浪速の各宿舎には新弟子が入る頃。

四股、鉄砲はまだいいが、箒の持ち方、掃き方、挨拶の仕方やら、心得、所作、作法のあれこれには戸惑うことは多いはずだ。師匠や兄弟子などから直接教わることもあろうが、細かなことまですべて手取り足取りとはいかないだろう。
そこで、見るものすべてが手本となる。最初のうちは見よう見真似のぎこちない面は否めないが、一年もすればそれらしい貌になっているはずだ。

それにしても、今場所は新横綱誕生、陥落大関の返り咲き如何、小型力士の新入幕など、久しぶりに見どころ満載でおおいに盛り上がるだろう。

実の生る花木

桃の花津軽捨てしと言ふ人と

津軽の春が懐かしいのだろう。

道路からよく見える場所に、頭よりちょっと高いところに桃の花が咲く。
初夏にははっきりと実がついているのも見える。
この人は、僕と同様に実が生る花木が好きなのだと思う。

3月10日ころから、二十四節気の「啓蟄」の次候、「桃始笑(ももはじめてさく)」になる。そろそろ咲く姿が見られる頃だ。東日本大震災とはそういう時期にあったのだと改めて思う。

終われば春

松明の奥うかがへず御水取

いよいよお水取りの日が近づいた。

今月の一日から修二会の行は始まっており、あの大きなお松明は練行衆の道明かりとして毎夜上げられている。
フィナーレのお水取り当日、あるいは土日となれば、大勢の観客が押し寄せるので体力のない者にはとてもではないがお勧めできるものではない。前半の平日を狙っていけば、うまくいけば長い時間並ばずともお松明のシーンは見られる。雨や雪ならばなおチャンスは広がる。

それにしても、あんなに大きな炎を振り回して、あの木造の建物が1,200年もよくも無事にいられたものだと思う。

あるかなきかの

強東風の攫ふ拝観しをりかな

花か香か。

折しも、菅原の里では梅が満開で、菅原神社では盆梅展が開かれているが、とくとく思うに梅の魅力はやはりその香りにあるのだろう。兼好さんに反論する訳ではないが、やはり梅は桜と違う。桜に比べ花期は長く、その最後までよく見ることができるが、そのことがかえって花の魅力というものを損じているようにも思える。かわりに、香りには花の盛衰にかかわらないものがあって、目をつむってでも、長きに楽しめるのがいい。
屋外に置かれた鉢からはそこはかとなく香りが立ちのぼるし、それがまた適度な風があるとそれぞれに鼻を近づけては確かめてみる楽しみがあり、それがどの鉢のものとも分からないことも多いのが奥ゆかしくていい。一方室内はと言うと、一歩足を入れてみるだけでそれぞれの香を凝縮した濃密な空気に全身が包まれてきて、これはこれで豪華な雰囲気を醸成していた。
個人的には、あるかなきかの香を楽しむ屋外のほうが好ましいと感じたが、さりながらこの日は大宰府にもとどけとばかり風に勢いがあるので、ゆっくり香りを堪能するどころか、首をすくめるほどの寒さには閉口した。
喜光寺の弁天池に浮遊するものが、あっちにもこっちにも振り回され漂流しているのが印象的な日であった。