持続可能社会

とんだものをいて凩去りにけり

いやな予感がする音がした。

風はさきほどよりひとしきり強くなっている。
案の定干しておいた猫トイレが飛ばされて、粉々に割れている。
欠けるたび接着剤で修復してはだましだましここまできたが、どうやらもはやこれまでらしい。
永年使って愛着があるので惜しいが、買い換えるしかあるまい。
プラスチックの経年劣化というのは避けがたく何年に一回かは交換となるが、持続可能社会に反するようなこといつまで続けられるのだろうか。
それにしても、木枯らしはいろんなものを置土産にするものだ。

燃えるゴミ

凩の蜂の巣さらふ置き土産

玄関に大きな蜂の巣が落ちている。

おそるおそるのぞくと巣穴はふさがっていて子供たちがいる模様である。顔元をかすめる虫があったので思わずたたき落とすとアシナガバチのようであった。ときどき突風が吹いてきてどこに巣くっていたのか見当がつかないが、残った親が落ちた巣のまわりを飛んできたのだろう。親蜂はそれ一匹きりでなんとも不思議だが、考えればもう冬になり残されたものもそれが最後だったのかもしれない。
元に戻そうにもどこか分からないし、まさか自宅においてゆくのも気味悪いので厳重に袋にいれ明日の燃えるゴミに出すことにした。

会釈もなくて

凩やお喋り好きが通り過ぐ

真正面からくる風をものともせず話に夢中な二人が近づいてくる。

近づいてきてはそのまま通り過ぎていった。
ただそれだけのことだが、二人とも帽子が飛ばされないように手で押さえながら向かってくるのが可笑しい。
挨拶も会釈もあったもんじゃない。

童謡

凩の身ぬちの洞を吹きすさぶ

焚き火もうっかりできない時代となって久しい。

落ち葉を掃いて落葉焚き。こんな光景も見なくなって久しい。
「たきび」という童謡の世界に出てくる世界もどこか遠い時代のような話で、しもやけなどは今の子供たちはもちろん知らないだろう。
それでも学校の音楽の時間には唄っているのだろうか。

すくっても掬っても

凩の天下御免の大路かな

信号待ちをしていると突風が吹いて落葉がからから鳴りながら横断歩道を飛んでゆく。

奈良公園一帯には高い木が多く、頭上高くから長い軌道をひいて落葉が降ってくる。
これが道路を越えて向かいの敷地にまで達したり、達しなくても塀際に落葉溜まりをつくる。毎日毎日落葉を掻く日課はさぞ大変だと思うが、広大な敷地を持て余した屋敷だけは落ち葉の嵩をまして側溝はもちろん道路までも覆っている。
園丁さんは落葉をこまめにすくっては袋に入れ、風の仕業に手を焼いているようだ。

奪われた楽しみ

木枯の湿つ気をびたる朝のうち

関東、とくに上州は空っ風。

乾いた北風はほんとに冷たくて耳さえ切れそうなくらい。
ところが、この奈良盆地というのはそんなきれっきれっという感じが少ない。
なぜなのかなあと考えてみたら、それは湿度の高低に関係しているのではないかと思うようになった。
雲だって、晴れていたとしても当地の雲は厚くて黒く、日射しは弱く感じる。それは蒲団を干すという面においてとくに感じることで、関東のようにほかほかとはなかなかならないのだ。蒲団を干す楽しみが奪われたといおうか。
アルプスや丹沢などのような水分を奪ってくれる高い山がないことの宿命か。

元興寺

凩の鰐口なぞる奏かな
萩枯るるままに僧房静まれる

元興寺極楽坊跡を訪れた。

凩ほども冷たくはない風が騒いだかと思うと、堂の正面の軒に吊した鰐口が微かに鳴った。
鰐口というのは神社などにお参りしたときに鳴らすあのジャラジャラである。
綱には長い五色の領巾がついており、これが風にあおられて綱を揺らし鰐口に撫でるような触れたのである。

もう一回聞きたいとしばらく佇んでみたが、音はそれっきりだった。
気を取り直して堂の周囲を見回してみると、大きく広がった萩がまさに枯れようとしている。
そう言えば、ここは萩の寺。
元興寺は元々法興寺(飛鳥寺)から平城京に移築されたもので、堂の瓦には当時のものがまだ使われている。時代を経て何度も修復されたのだろう、時代時代の瓦も混じってまだら模様になっているのがちょっと離れたところから眺めるよく分かる。

戦乱で焼けた跡は強力な後援者もないまま人々が住み着き奈良町の元になっている。

朱印所の小屋に覆いかぶさるような南京櫨はすっかり葉を落とし、小さくて白い実だけがはっきりと見えた。