軒先に菊をつらねて伊勢街道
菊花展が各地で開かれているころ。
宇陀の旧伊勢街道を歩けば、各戸の軒、玄関先に見事な菊が通る人の目を楽しませてくれる。
たまたま家から出てきた主に話を伺うと、町内に好事家がいて各戸はそれらを借りたものだという。
どれも立派に咲かせて、町内がいちどにぱっと明るくなるのならば、そういう押し売りもまた悪くない。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
軒先に菊をつらねて伊勢街道
菊花展が各地で開かれているころ。
宇陀の旧伊勢街道を歩けば、各戸の軒、玄関先に見事な菊が通る人の目を楽しませてくれる。
たまたま家から出てきた主に話を伺うと、町内に好事家がいて各戸はそれらを借りたものだという。
どれも立派に咲かせて、町内がいちどにぱっと明るくなるのならば、そういう押し売りもまた悪くない。
乾涸らびて枝より細し鵙の贄
冬の季語かとばかり思っていたら、「鵙」の傍題で秋である。
冬には葉が落ちて発見しやすいところからそういう思い違いをしていたのであろう。
ともあれ、小さなばったが叫喚の大口を開けて枝に乾涸らびていたのである。
鵙とてこんな小さな虫をあちこちに刺したとて、冬のあいだの糊口しのぐには頼りないことであると思うが。
櫨の実を食らふ鴉のまりにけり
南京櫨の白い実を夢中で四十雀の群れが啄んでいる。
烏がやってきて頭の上でおなじく実を啄みだすのも構わず一心不乱のようである。
何しろ蝋の原料にもなるのだから、脂部分が多くて食えないと思うのは人間だけで、鳥たちにとっては冬に供えての栄養になるのだろう。
奈良には南京櫨の木が多い。特に東大寺大仏殿裏の正倉院にいたるところには、遠目にも何本もの大樹が見事な紅葉を見せてくれる。葉が厚く、木全体が深紅に染まるとそれはもうたいそう立派な紅葉樹なのである。
銀杏黄葉がすばらしい大仏池といい、初冬は大仏殿裏手の散策は人も多くないし、おすすめの散策コースである。
抱き植ゑて紫式部白式部
紫式部や白式部の実は意外に長く楽しめる。
9月初めに初々しい実を見かけたのでかれこれ二タ月以上は楽しめてるわけだ。
二種類の式部の枝が交差しているので、まるで式部の源氏咲きならぬ源氏生りかと思う植え込みがあった。
なおもよく見ると、どうやら二種の抱き植えのようだ。
葉っぱも半分くらい落ちていよいよ式部の実も終盤に近い。
団栗やゴム管といふ飛道具
団栗がいたるところに溜まっている。
種類によってはピストルの弾のような形をしており、育った土地の方言で「ゴム管」といわれた「パチンコ」の弾にもってこいだと直感した。
命名はおそらく管状のゴムパイプを使うのが正統だったと想像されるが、自分たちが作って遊んだのはよくて古タイヤを割いたもの、普通はゴムバンドを縒ったものを使うことが多かったと記憶している。
ともあれ、団栗のつぶてはうまく挟まないと的にうまく当てるには難度が上がりそうであるが、当たった場合の破壊力は相当なもので間違っても人や動物には向けては危険である。
瞬時に子供時代にタイムスリップできるのが団栗の面白いところである。
探鳥の肩に時雨るる木の実かな
団栗の水漬けるままの雨溜り
水景の石の狭間の木の実かな
団栗のはかまはいまだ枝にあり
禁足の池に木の実の降りにけり
三脚の双眼鏡に立つ人に木の実が降り止まない。
うっかり上を見上げれば顔を叩かれかねないほどの木の実時雨である。
いつもの散歩コースがいつになく楽しい。
小鳥は来るし、花壇は秋の花でいっぱいだし、主役がどこにでもいる。
すっかり実を落とした山梔子の葉の上には枯蟷螂。枝を揺すぶったら戦意示すことなくさっさと植え込みに逃げ込んでしまった。こんな遊びをしていたら、およそ二時間なぞあっという間に過ぎてゆく。
歩数一万はいっただろうと思いきや、ちょっと足りなかった。
足が慣れてきたらもっと距離も稼げるとは思うが。
生駒嶺の霧は霽れたりケーブルカー
霧霽れてあれが暗峠とや
今朝は濃霧。
しかし、もう8時をまわる頃にははれあがって生駒嶺に生き生きとした朝日がさしている。
暗峠も意外に低く見えてきたりして、すぐにたどり着けるのじゃないかと不遜な考えさえもたげてきた。
20分の乗車でいくつか句が生まれたり、霧や靄がぱっと開けると眼前にはいろんなものが新鮮に見えてきて不思議な一日であった。