建国の地

コンビニの傘裏返るしまきかな

冬の嵐である。

家を出るときは晴れがのぞいている空だったが、今日の吟行地橿原に近づくにつれ雲行きが怪しくなってきた。例によって葛城山に黒い雲がかかり盆地南部はまぎれもなく雨である。
突風も吹いて、吟行気分はどっかへ吹っ飛びそうになる。今日の天気を甘く見て傘も持ってこなかったので、コンビニを何とかみつけ間に合わせた。
すでに9日となって寒に入っていることもあり気分は新年ではないが、橿原神宮なのでここは初詣風景として詠んでも問題はなさそうである。
長い参道をぬけて拝殿近くとなってようやく青空も見えてきた。畝傍山の稜線がくっきり浮かび、正殿の千木,鰹木が燦々と輝いて神々しい。

雨去つて畝傍日当たる初景色

茶粥

寝正月夕は茶粥を所望して

雨の一日、外へ出る気もせず何もすることがない。

午前中はふんばっていたが、炬燵に入るともうだめだ。
しばらくは我慢していたが、気づけばというか、やはりというか、たちまち眠りに落ちてしまった。
松も取れ、単なる昼寝であって正真正銘の「寝正月」ではない。
胃袋もくたびれ気味とあっては、夕食も簡単に茶粥ですませたくなる。

明け暮れ

つまびらかならぬ古墳に若菜摘む

今日は七草粥の日だそうである。

昨日例によって墳丘公園を散歩していたら、老夫婦が並んで草を摘んでいるところに遭遇した。聞けば、蓬を見つけたので摘んで帰るんだと。迂闊にもちゃんと聞かなかったが、もしかして今日の七日に蓬粥でもすすろうとしていたのかもしれない。
歳時記に馴染んでいるつもりでいて、かく暦から遠い暮らしに明け暮れているようではまだまだのようである。

言の葉

読初や青畝句集を舌頭に

読み初めとは本来経書を音読したことを言うらしい。

読書とは今では黙読が当たり前の時代だが、声を出して読んでいたのはいつ頃までだったろうか。おそらく高校の古典、漢文の授業以来たえてないのではないか。
とくに、教科書に出てくる古典中の古典のそれぞれは調べも美しく、音読しても気持ちいいものがある。とりわけ好きなのが、伊勢物語で、冒頭の「むかし男ありけり」でたちまち物語の世界にさそわれるのが心地いい。好きな段は第九段東下りで、とくに「すみだ河」の「これなむ都鳥」のくだりは一気に畳み込むように都落ち一行の境遇を浮かび上がらせる。
最後の「舟こぞりて泣きにけり」にいたるや、もうこれは謡の世界として溶け込むようである。
「物語」とは「物語る」ことであり、古典とは長い時間ひとの舌に乗ってさらに磨かれてきた文学なのであろう。

ことしもまた阿波野青畝句集の文庫本をかたわらに、自在な言葉の魔術の世界に酔っている。

安全祈願

安全を誓ひて仕事始かな

勤めていた会社の工場部門では、始業式が済むとただちに無事故・無火災のお祓いを受けに近くの神社へおもむいたものだ。

全部課長、安全衛生に関わる担当者が参加して神社の御札をいただいて帰ると、今度は各課の神棚に供え、そこでまた職場の安全式を行う。
こうして、ともするとQCDの追求に走りやすい現場に「安全第一」の精神を植え付けるのである。
「ひやり・はっと」レベルのものも含めて「無事故」は全部課長の管理項目に上げられ、工場長による毎月のパトロールはもちろん、定例の報告が課される。
安全管理統括の立場の在職中、大きな事故がなかったのは幸いであったが、ハードの整備だけでは防ぎきれないソフト上の残念な事故がいくつかあり、職場から事故をなくすのはほんとうに難しいことを痛感した。

二度寝

厠よりもどり初夢忘れけり

夢なんて毎晩のように見るが、ことごとくが朝になると覚えていない。

夢というのはたいていが眠りが浅いときに見るようで、尿意をもよおして目が覚めるときが多い。寒い寒いと震えながら用を足しているうち夢のことなどとうに飛んでいるのである。
やれやれと暖かい蒲団にもどればすぐに二度寝に落ちている。

ながら族

新聞と葉書来ぬ日の初ラヂヲ

休みなく漕ぐ。

エアロバイクが習慣となって3か月くらいたつだろうか。
一日300キロカロリー分以上を目標と決めて、息が上がるペースで毎日漕いでいる。運動不足のせめてもの慰めだが、これもやらないよりはましだろう。
今日は二日。新聞も来なければ、年賀葉書も来ない。たまたまつけたラヂヲで俳句をやっていたので、それを聴きながらひたすら漕ぐ。エアロバイクというのは、当然ながら風も感じなければ鳥の声も聞こえない。道路の凹凸の感触もなければ、アップダウンの楽しさとは無縁の実に単調な「作業」である。
そこで、手足以外に自由なものを使いながら、テレビを見、音楽を聴きなど、「ながら」しながら漕がなければとても30分は保たないのである。
かくして今日も目標をクリアすれば、体もぽかぽかと暖房もしばらく無用のエコ正月になる。