雪割草ふりさけ見れば登廊
長谷寺本坊から見上げる光景はいつ来ても飽きない。
仁王門からくの字を描いた登廊、それが到達する本堂の大舞台の展望が素晴らしい。
足下に目をやれば、庭の冬牡丹もみごとだが、その傍らに健気にひっそり咲いているのが雪割草である。
どの時期に来ても何らかの花が見られる長谷寺は、まさしく花のお寺の名に恥じない。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
雪割草ふりさけ見れば登廊
長谷寺本坊から見上げる光景はいつ来ても飽きない。
仁王門からくの字を描いた登廊、それが到達する本堂の大舞台の展望が素晴らしい。
足下に目をやれば、庭の冬牡丹もみごとだが、その傍らに健気にひっそり咲いているのが雪割草である。
どの時期に来ても何らかの花が見られる長谷寺は、まさしく花のお寺の名に恥じない。
日本とは日本人とは菜の花忌
数日前のことだが、2月12日は司馬遼太郎の忌日。
先週末、没後20年を意識してだろうか、NHKの二夜連続で特集が組まれた。
ご覧になった方も多かったと思うが、あらためて偉大な「ものかき」だったことを再確認することができた。
自宅からは生駒を越えてすぐのところに彼の記念館があって、行こう行こうと思いながら今日まで果たせていない。
書斎の窓辺に菜の花がいっぱい咲いているこの時期こそチャンスだろう。
「菜の花忌」が季語として定着しているかどうか、いささか心許ないが、名実ともに季語たらしめる佳句が待ち望まれているのは間違いなだろう。
益荒男の涙目なるも春の風邪
猫の恋の季節が始まっている。
悩ましげな声がしては家の近くを通り過ぎて行くが、避妊・去勢された我が家の猫どもはと言えば、相変わらず炬燵猫。一日のほとんどを寝て暮らしているのを抱き上げても、半開きの目で物憂げな表情を見せる。
まるで花粉アレルギー症か風邪でも引いたかのような、うるんだ瞳を向けるのが何とも可愛い。
このように、か弱いものの見せる涙目はチャーミングだが、これが大男ともなると全く別の話で、どこか滑稽を帯びた哀れというものが漂う。
春一番出足くじける雨混り
春一番一ㇳ日を棒に振りにけり
キヨノリ君のぼやきをいただきました。
せっかく楽しみにしていたのに、なんとつれないことよ。
ささやかな楽しみさえ雪とか嵐に奪われるとは。
気を取り直して、次回に期待しましょう。
目に見えぬものおぞましき春疾風
春一番だそうである。
「だそうだ」というのは、どうもこの盆地では疾風怒濤をまくような風が吹かないのである。
生駒や金剛・葛城に遮られでもするのだろうか。
今日もまた、いつもよりちょっと風が吹くなあという程度しか感じられない。
土埃が舞うようなほどでもないし、道端に落ちているゴミなども風に飛ぶようなことはない。
ただ、ふと思うのは、花粉や最近何かと世間を騒がせているPM何とやら、目には見えないが厄介なものたちが跳梁跋扈しているのではないかということである。
一般に雨後の花粉などは、雨で地面に落とされて溜まっていたのが、一気に舞い上がるので要注意だという。
この二、三年軽い花粉症の症状が出るので、インフルともども気をつけることにこしたことはないだろう。
今日は黄砂が舞わないだけましか。
盆梅の古色然たる肌を愛づ
樹齢何百年という盆栽には驚かされる。
地球寒冷化、温暖化の歴史も乗り越えて、あの小さな世界に根をはって生きてきたのだと思うと、世話した何世代もの人のことも然りながら、したたかな生命力には脱帽だ。
また、幹や枝を見ると、まるで枯れ木のようで、とても花や葉をつけるようには思えないが、古色蒼然たる枝に小さな蕾がびっしりついているのはまさに奇跡ではないだろうか。
下萌やボール飛び交ふ膝枕
馬鹿陽気である。
今まで霜に痛めつけられていた緑が、幾分鮮やかさを帯びてきたようである。
めいめいフリスビーや、サッカー、自転車などに興じる家族、グループがあれば、そんな周囲など目に入らないと見える膝枕のカップルも。
枯れた芝生の芽生えはまだまだだが、雑草類はたくましく頭をもたげてきた。