のどけしや公道駆れる耕運機
ナンバープレートはない。
かつての農地が開発されて宅地に化けたが、それでもまだ田が残った。
そこへ、住宅地のど真ん中を貫く公道をつたって堂々と耕運機が通う。意識はまだおらが村というところだろう。
また、住宅地の真ん中の持ち分の土地でゴミを焚いて煙を周囲に振りまいても、周囲を気にする気配などこれっぽちもない。逆に、こういうことにいちいち目くじらをたてていたらとても住んではいられない。
これが奈良だ。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
のどけしや公道駆れる耕運機
ナンバープレートはない。
かつての農地が開発されて宅地に化けたが、それでもまだ田が残った。
そこへ、住宅地のど真ん中を貫く公道をつたって堂々と耕運機が通う。意識はまだおらが村というところだろう。
また、住宅地の真ん中の持ち分の土地でゴミを焚いて煙を周囲に振りまいても、周囲を気にする気配などこれっぽちもない。逆に、こういうことにいちいち目くじらをたてていたらとても住んではいられない。
これが奈良だ。
三毛猫の抜け毛からまる春埃
カーテンを開けると猫の毛が舞い上がる。
ここ二週間ほど、彼らの冬毛が落ち始めたらしい。
窓というのは、日向ぼこにもなるし、そこから道路を眺めるのも好きなようで、とくに抜け毛が多い。
断熱の効いた家の中で過ごしていても、やはり冬毛というのはあるらしい。
コーミングが好きな子がいて、毎朝ブラシをかけてやるのだが、冬の間の抜け毛はほとんど目立たない。ここのところは窓際はもちろん、階段の隅や棚の上(猫は高いところが好きなのである)など、いつもより広範囲に目立つようになる。
掃除機のポットの半分は彼らの不要となった冬毛の時分なのである。
流氷や北方諸島しらじらと
目の前にある外国。
それを距つ海に、外国から流れてきた氷が覆う。
一衣帯水というが、この氷を渡っていけば外つ国に至るのも不可能ではなかろうか。
そんなことすら想像してしまう光景が顔面に広がっている。
観光客には嬉しい光景だが、港が閉じこめられるなど現地に住む人たちにはどういう風に映るのだろうか。
「流氷」は春先にもっとも多く見られることから春の季語とされる。
この流氷が沖へ引くように流れ、「海明け」を迎えるとオホーッツク沿岸に春が到来する。
ある北海道出身作家が同名の「海明け」という小説をものにしているが、この作家は若い頃騙されて樺太に売られ、そこの缶詰工場で働かされるジャコビニという経験を持っている。
たしか、その小説もまた、暗く陰鬱とした世俗から解放されるその象徴として「流氷」を描いたのだった。
引っ越しの時ほとんどの本を捨てたが、この作家のものは全部残して手許にある。ひさしぶりに紐解いてみようかと思う。
飛び石のあわひ競りあげ春の川
飛鳥の石橋をイメージしている。
川原にある石を並べただけの普通の飛び石にしか見えないのだけど、その昔男が女に逢うためにここを渡ったのだと思うと、なかなか去り難い思いに駆られる。
春の光りをきらめかせながら、水が盛り上がるように、競うように下流に流れてゆく。
種芋の小分けの袋から売れて
プリンタインクを買うついでに、苗コーナーへ。
店先にずらっと並ぶジャガイモでも作ろうかと思ったが、袋売りのどれもが家の菜園には持て余すくらいの量で躊躇してしまった。それでも隅にやっと小分けの袋を見つけたが、男爵、メイクイーンとあって男爵は売り切れ。
さらに、家人にジャガイモは安いよという一言で、もうやる気が失せてしまう。
なお、季語「種芋」は字の通り、本来は里芋のことであるが最近はいも全般に通じるようである。
ジャガイモはあきらめたが、陽気がよすぎるので小さなプランターを買って、去年の余りの二十日大根を蒔くこととした。
プリンタ買い換えかと思ったが、どうやらインクを差し替えたらしばらくして印字できるようになった。
青色申告は今年は郵送で済ませることにした。
やれやれ。
有休の取得うながす春の風邪
お隣さんは今日は休みらしい。
子供を保育園に預けての共稼ぎだが、子供が風邪を引いたと言っては奥さんがよく休暇を取っている。
民間の会社では今でも有休を消化するのは大変な企業がまだまだ多いと思う。
私も現役時代、一応翌年度まで持ち越すことができるのだが、100%はおろか50%だって消化した記憶はない。期末でリセットする仕組みだったけど、四月からまた新たな一年分が与えられるので、結局いつも二年分の休暇を持ってスタートラインに立つわけである。
この期末を前に、駆け込みで消化したい誘惑に駆られるが、それはそれでまた周りに気を遣うものである。
駆け込みと言えば、明日が確定申告の締め切りだが、今日やっと明日持ち込めばいいところまできて、いざ印刷となってプリンターが言うことを聞かなくなった。代替え機をネットで買っても明日着くかどうか分からないし、ギリギリまで先延ばししてきた報いがいっぺんに來たようだ。
囀の一オクターヴ越えたるか
ふだん見かけない鳥がいる。
カップルのように思えるが、電線の五線譜を跳んでは鳴いて、まるで音符が踊っているである。
鳥たちにも春が来た。
歓喜の声は上下によく転がって、その音階差は1オクターブを越えて行き来しているようにも聞こえる。
間もなく、営巣、産卵、そして子育て。そうなると、今朝のような耳にも心地いい音楽が聞ける期間はかぎられている。
冬の間の探鳥は、その姿を認めるのが楽しみなのだが、これからの季節は目ではなく耳で楽しむのである。