木の葉髪あれきり歳をとらぬ父
父の齢こえて相似の木の葉髪
木の葉髪櫛はね返すちからなく
櫛が通らぬようになった。
髪の数もさりながら、若い頃にくらべ極端に細くなった髪は縮れやすくて簡単には櫛を通してくれないのだ。もつれた部分をおそるおそるほぐし終わってようやく櫛もブラシも通る。
鏡をのぞけば父の齢をこえてしみじみ髪のボリュームの足らない部分も似てきたと思う。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
木の葉髪あれきり歳をとらぬ父
父の齢こえて相似の木の葉髪
木の葉髪櫛はね返すちからなく
櫛が通らぬようになった。
髪の数もさりながら、若い頃にくらべ極端に細くなった髪は縮れやすくて簡単には櫛を通してくれないのだ。もつれた部分をおそるおそるほぐし終わってようやく櫛もブラシも通る。
鏡をのぞけば父の齢をこえてしみじみ髪のボリュームの足らない部分も似てきたと思う。
人参のマティスの絵めく股根かな
耕しもしない畑。
雨後の柔らかい土でと、今日は7月末にまいた人参の初収穫である。
案の定二股のものがけっこうある。
肥料もやらないのにちゃんと育ってくれたようで、いかにも脹よかで柔らかそうである。それだけに二股の人参は下ぶくれの下半身を思わせる。
もちろん食べる分には全く問題ないので冷藏庫にしまっておく。
葉っぱも新鮮で食べられそうだが、間引き人参とちがうのでやや固そうである。冷蔵庫にはまだ在庫があるということなので、今回は畑の肥やしとなった。
椋鳥のひしめきあうて冬に入る
気がつくと椋鳥の集団が家の前の電線という電線に止まっている。
正しくは電線も電話線もいうことだが、100羽ではきかない数があの特徴のあるジュジュという鳴き声を発してはくっつくようにして犇めいている。30分ほどはいたろうか、そのうちの一画が飛びたったかと思うと信貴山の方へ向けて一斉に飛びたった。
椋鳥は晩秋などに一団となって街路樹や電線に止まることがあるが、あれはいったいどう言う意味があるのだろうか。
ジャムを煮る鍋ふつふつと冬に入る
立冬。
まだ金木犀の香りが残る冬である。かつての感覚からすれば季節は一か月ほどずれているのかもしれない。
庭の柚が色づいたので収穫したら4キロほどあった。さらに菜園オーナーから1キロほどをいただいたので、今日はジャムづくりである。家人が手を痛めているのでナイフを持つのは私。
5キロのうち4キロをジャムにするのだが、馴れないこともあって指が何度か攣りそうになる。おまけに終われば肩もえらく凝っていた。あとの処理は家人に任せ、この稿を書きながら台所の音を聞いている。
御神体のお山へ向けて豆をまく
「福はやま〜」
三輪神社では御神体の山へ向かって豆を撒く。
今年の参拝客は福豆をいただいて帰るだけ。
全国では中止となったところ、参拝客を制限して行ったところなど、どこも自粛ムードが漂う。
災いを退散させるための神事が、かくなる仕儀となったのも止むを得ないとはいえ寂しいものである。
ワンフィンガーで打つパソコンの冷たさよ
パームレストの辺りが冷たい。
ノートパソコンを使うと、夏ならばパーツのヒートアップで両手が火傷しそうになるくらいだが、冬は逆。
スウィッチ入れてもしばらくはなかなか熱が上がらず、掌を置けぬ冷たさについ指だけで打つという形になる。
ブラインドタッチからはほど遠いレベルなので、左右の人差し指各一本ずつ。
一日中使っていてもノートPCは冷え性である。
芝枯れて墳丘子らのすべり台
一部土が露出している。
子供たちは遊びを見つけるのがうまい。
結構大きな前方後円墳の芝もすっかり枯れて格好の滑り台なのだ。段ボールを尻に敷いて何メートルか滑り降りる。
その滑った跡の芝がはげて土が露出しても、巨大な丘の形はびくともしない。
平らなところばかり歩いてもつまらないので、前方墳から後円部分にかけての斜面をよじ登るようにしてはまた降りるも取り混ぜて変化を持たせている。
一番高いところに立てば、四面に盆地の山々が望め、しばし深呼吸しては息をしずめる。
舗装した部分を歩くのは腰にひびくので、できるだけ土や草の部分をよって歩くので6キロくらいは歩ける。それでも痺れる腰を何度か屈伸させてなだめながら、いつもの周遊コースを歩く。
去年もそうだったが、今年も渡り鳥が少ない。歩く楽しみが半減する。