残すに足りるもの

冬ぬくし作字だらけのゲラ刷りて

活版印刷の時代が懐かしい。

印刷業界はとっくにコンピュータ化が進み、活字拾いの職人を一掃してしまって、もはや名刺や趣味のものなど特殊用途の、しかも小さなロットのものしか利用されてはいまい。
インクの匂ひに満ちた校正室の狭さも、赤ペンで真っ赤になったゲラ刷りも、大きな広辞苑が置いてある書棚も、編集者や整理担当の煙草の煙りも、今となっては遠い世界の話だが、あの凹凸ある活字の味わいは独特で、もし自分が本を作るのならたとえ表装が粗末でも活版で印刷したいと思う。部数もせいぜい十数冊程度ぐらいで、親しくしていただいている人に一冊ずつ手渡しでお分けできればいいと。
あとは、活字で残すに足りるものを書けるかどうか。それだけである。

ここで、「作字」とは:
活版の活字というのは同じ字でも書体や大きさなどさまざまあり、職人さんは一文字ずつ拾っていくわけだが、場合によっては在庫切れ、あるいは標準で手許に置いておけないようなレアな文字の場合は、「欠字」と言って黒く塗りつぶした活字を暫定的にはめ込むのである。そのなかで、後者の場合、偏と旁をそれぞれ組み合わせたりして字を作らなければならない。人名など特殊な場合にたまにある。

声聞くだけ

かの人の生き急ぐなり日短
声を聞くだけと電話す日短

朝から一日を使い切った感がある。

心地よい疲労だ。
最近エアロバイクはじめちょこちょこと体操めいたことをしているせいか、腰も悲鳴をあげないで保ってくれた。
もう少し続けてみて様子がよければ、信貴山に再挑戦してみたいものだが。
友人から電話かかってきて話し込んでいたら、いつの間にかもう夕方になっていた。

寒波来

風花や鵞毛袋の開きしごと

気のせいだろうか。

ちらちら舞うのは風花だと思ったのだが。
季節としてはちょっと早いような気もしたが、雪虫ならもっと小さいはずだし、風に煽られてふわふわしていることからも鵞毛のような雪ではなかろうか。
今日から12月。
前半は年に数度しかないクラスの寒波だという。まだ体は初冬のままだし、覚悟だけでも厳冬に耐えるよう備えなければならない。

奪われた楽しみ

木枯の湿つ気をびたる朝のうち

関東、とくに上州は空っ風。

乾いた北風はほんとに冷たくて耳さえ切れそうなくらい。
ところが、この奈良盆地というのはそんなきれっきれっという感じが少ない。
なぜなのかなあと考えてみたら、それは湿度の高低に関係しているのではないかと思うようになった。
雲だって、晴れていたとしても当地の雲は厚くて黒く、日射しは弱く感じる。それは蒲団を干すという面においてとくに感じることで、関東のようにほかほかとはなかなかならないのだ。蒲団を干す楽しみが奪われたといおうか。
アルプスや丹沢などのような水分を奪ってくれる高い山がないことの宿命か。

一将校成りて

犬の尾の触れみ触れずみ枯尾花

絮もほとんど飛んでしまった。

万骨枯るといった風情だが、意外にしぶとくて簡単には姿を消さない。へたすると冬だって越してしまうほどだ。
ま、しかし、枯れたのなら潔く土になったほうがいいと思うがどうだろうか。

「降りみ降らずみ」という言葉はあるが、この用法は許されるかどうか。

ゆかしい

女子大はメタセコイアの枯れっぷり

正門を前景にメタセコイアの大木がそそり立つ。

この時期になると、黄葉して異彩を放つことになる。
奈良女子大のシンボルツリーともいえるこの木は、行くたびに仰がずにはいられないほどの存在感がある。
和名をアケボノ杉というらしいが、やはりメタセコイアの名が通っているし、異彩を放つ姿に対してはそのままで呼んだほうが相応しいように思える。
卒業生の方にとってどんな存在なのかは知るよしもないが、通りがかりのものには強く印象に残る何ものかがある。
来月になると葉をすっかり落とし、その均整の取れたシルエットがまたゆかしい。

走り去る

しぐるるや傘だれも持ち合はすなく
持ち合はする傘なく宇陀の初時雨

宇陀の時雨だった。

句座がはねて外へ出たらぱらぱらと来たのだった。先ほどまで窓から冬日がさしていて、意外に温かい日だなと思っていたので意外だった。山がちな地形を縫って、走り去ってはまた通り過ぐ。そんな繰り返しが今年も見られるのだろう。