今年最後のお務め

猫の砂散るを見とがめ掃納

今年も何回掃除しただろう。

わりと無頓着な奴もいれば、神経質にしっかり砂に埋めないと気が済まぬ奴がいるらしい。
一日に何回となく玄関に設えた猫トイレを覗くのだが、その神経質というか飼い主の気持ちに鈍感なやつが、派手に砂をばらまくのを見るたびに、汚物を除き箒で浄める繰り返しである。

これを一日数回繰り返しては、翌朝スペアのきれいなトイレに交換し、汚れたトイレを水洗いしては天日乾し。乾いたら、今度は吸収マット、そして新聞紙を敷いて翌朝用に準備しておく。

前の子たちは、飼い主に優しくマナーを守ってくれていたので、これほどの手間を取らせなかった。
明けてもこのブログ同様休むことなく、同じ事の繰り返しが待っている。

それでは、良いお年を。

棒のごときもの

日記いつ果つるともなきブログかな

「日記果つ」、傍題に「古日記」。

一年間綴ってきた日記もいよいよ古び、あと一日の記述を残すのみ。
普通の日記帳なら、手に取って今年のあれこれを思い浮かべ述懐にふける時期でもあるし、年が明けるとインクの匂いも香しい新日記にかわると気持ちも新になるものだ。
いっぽうで、ことブログとなると物として親近感や感慨をもよおすものとてなく、一区切りという感覚も薄くなる。

それこそ虚子の言うように一本の棒のようなものかもしれない。

戦後派も古稀へ

行年や焼跡派去り戦後派も

ニュース、スポーツなど今年の総括的な番組が多くなった。

わけてもしみじみとくるのが、今年鬼籍に入られた人たちのことである。
永遠の処女と言われた女優、一言居士の塩爺はおろか焼け跡闇市派の代表みたいなひとも身罷るようになり、戦後派である同級生もその列に加わるようになった。

戦後70年と言われた年だった。
90歳以上なら大正以前の人。
昭和の人の訃報が増えてくるのも当たり前ということだろう。

子猫カレンダー

古暦休診予定の貼り紙も

日めくりであればあと数枚。

見慣れたカレンダーもあと数日。
早いところではもう来年の新暦に換えられているかもしれない。
家にあるのはいろいろ書き込みのあるカレンダーだが、商店や診療所などではカレンダーと並んで年末年始の営業予定、休診予定などを告知する紙が貼られていることだろう。

さて来年の子猫カレンダーの写真はどんなのだろうか。

かき入れ時

生業の看板よそに年の市

日本三大朝市というのがあるようである。

飛騨高山朝市、輪島朝市、房州勝浦朝市。
勝浦の朝市とはよく聞かぬが、飛驒、輪島は観光としても有名どころで全国版ニュースなどでよく取り上げられる。
年末ともなると、青いシートの下で普段は野菜や魚、お土産品などを売っている店が正月のお飾りなど年の市に早変わりするようだ。
アメ横のスポーツシューズ店などがこの時期だけ蒲鉾、数の子など正月用品を売る店に変身するのと同じようなものかもしれない。

そう言えば、牡丹の時期、長谷寺の門前通りの普段はシャッターが閉まってるような店でも、にわかに牡丹や芍薬を並べる店として営業しているのを思い出す。
場合によっては、これが年間売り上げの大半を占めるまでのかき入れ時かもしれない。

過去の話

冬籠というてもインターネット

急に寒くなってきた。

風も強くなってきて外出がおっくうになる。
今日は終日引きこもり爺だ。
テレビや電話もあればネットもある。
昔の豪雪地帯だって今では車も通う。
自らの意志に反した不可抗力の冬籠もりというのはもう過去の話だろう。

信者ではないが

街騒の一画聖夜人形劇

近鉄奈良駅をはさんで二つの教会がある。

いずれも商店街の通りに面しているが、いかにも奈良に似つかわしい風景に溶け込むような佇まいである。
カトリック教会は、駅から登大路通りを渡って北町に向かうと百メートルばかりのところにあって、早くから表の大きな掲示板のなかに馬小屋の生誕人形が飾り付けてあり、素朴な人形に釘付けとなる。
もう一方の教会は、和風建築の教会としても有名で、駅から奈良町へ向かう商店街にぽっかり空いたような静かな空間を作っている。

寺ばかりというイメージだが、奈良市内にはこのほかにも意外に教会が多い。