忙中閑

句をとむる一ㇳ日授かる年の内

年賀状もまだ手をつけないのに。

なぜだか朝から、古い句集を引っ張り出してきて。
いくつか年末の句が浮かんできた。
別に授かったわけでもなく、年末のあれこれをサボっただけだが。

今年の十句

所属する結社では、規定を満たせば特別な同人資格を得る。

ある意味で結社の顔となる同人で、特別なコラムに投句できる。
たまたま来年からの推挙を受けたのだが、力不足を自覚しておりもう一年このままで頑張ることにした。
この一年を振り返るに、まだまだ満足できる句を授からずにいるが、一通り次の句を選んでみた。

つまびらかならぬ古墳に若菜摘む
雨去つて畝傍日当たる初景色
寄鍋の酒も尽きたる饂飩かな
縄尺を延べて球根植ゑゆける
鶯のそこに來てゐる立話
イベントの楽日の雨の五月鯉
相槌の団扇二タふり三ふりして
端山にも名ある吉野の今朝の秋
上の子に絵解してやる走馬灯
いくばくの気流に鳶の小春かな

まる見え

団欒の目隠蔦の枯れにけり
蔦枯るや由緒正しき煉瓦塀

ようやっと日除けの棚を片付けた。

日除けでもあり、プライバシー確保の砦でもあったのだが、さすがに蔓まで枯れてきては醜いばかりである。
来年の初夏の頃まで半年あまり、ブラインドだけが賴りなんだが、猫どもが暴れるとめくりあがったりしてやれやれである。

どこで死ぬか

死ぬるまで彼の地かクリスマスカード

もう何十年も海外で暮らしている知人いるが、この先どうするのだろう。

毎年毎年この時期になるとカードを送ってくれるが、雰囲気からすればもうそのままそちらで骨を埋める腹を据えたようにも思える。
そこのところは具体的にはふれてないが、たまに帰国したときの口ぶりで何となくわかるような気がする。
人間どこで死のうが死にゆく者にとってはどうでもいいことであるが、問題は死後構ってくれる人がどこにいるかであり、迷惑だけはかけられないのだ。
海外が長ければ子供たちも日本とは疎遠になることだし、やはり子供たちの近くで死ぬることが一番の子孝行となるのは間違いない。
かくいう自分も、己のわがままで子供たちのいる東京を捨ててきたのだが。

一足早く

宅配のピザをせめてに聖誕祭

ケーキではなくピザ。

これが老夫婦のささやかなクリスマス。
クリスマスだからといって、今までこれということはやってないが、たまたま今日ピザの店の前を通りかかってたべたくなったから。
持ち帰りなら一枚ただという看板に目がとまったのだ。
家では全く飲まないが、たまたまいただいたビールがあったから、飲めない家人をおいて一人で祝杯。だが、二人で二枚はさすがに重い。半分ほどは残してしまった。

ボヘミアン・ラプソディ

煤逃と無縁で生きてシネマ混む

「煤逃」という言葉を知ってる人はどれだけいるだろう。

俳句をやるひとくらいに限られるのではないだろうか。
評判の映画にわんさと押しかけるひとたちにとっては、煤逃のために來ている訳でもなかろうし。

ぷかぷかと

不揃ひの柚子お手玉に冬至風呂

明日は冬至。

今日がそうかと、柚子風呂のために摘まずにおいた柚子を採ってきたら、家人にきょとんとされた。
庭の柚子だから、大きさ、形も色もさまざま。それが湯舟に浮かぶといろいろ触って遊びたくなる。
お手玉もいいが、お湯でふやけた玉はすぐに崩れてしまって風呂の水は濁るばかり。
それでもお湯にぷかぷか浮いているのを見ると、つい手がでてしまうのだ。