山見ては木には及ばず紅葉狩

一目千本とは吉野の桜を見渡せることあるいは場所を言うが、他にも名乗るところもあるようだ。

まるで何々銀座というようなものだが、それでは全山もみぢというようなスケールの大きい場合は何というのだろうか。
考えてみれば桜もまさにそうだが、紅葉の景色を楽しんでいるとき、一木一枝こまかに観察し、それを手にとって愛でているかと言えばそうではなさそうだ。全体の紅葉のなかでも微妙に異なる色彩のあやに声を上げているのではあるまいか。
考えてみれば紅葉狩りとは妙なネーミングだ。葡萄狩り、林檎狩りのように現物を折り取って持ち帰るわけでもない。
語源はどうやら平安貴族が紅葉を求めて野山に出かけたことにあるという。太古から、野山に薬草や染め物の原料にあたる草木を狩り、あるいは鹿や猪を狩ってきた。そんな延長線上に紅葉の名所を訪れ宴を楽しむ紅葉狩りがあったのだ。宴の遊びを野外に求めていくことを広く「狩」と称してきたわけだ。
現代は紅葉の名所まで車でさっと行ける時代。酒宴を張ることなどとんと無縁な紅葉狩りの時代となった。
また、桜泥棒なる言葉はあるが紅葉泥棒とは聞かない。いくら酔っても紅葉の枝などゆめゆめ持ち帰ってはいけない。

南京袋

鹿苑の喜びさうに木の実落つ

大量の団栗が転がっている。

というか、墳丘の裾を転げて集まってきているのだ。南京袋にでも入れて鹿苑に持って行ってやれば、鹿も大喜びしそうなほどある。
なんだか、季節はどんどん進んでいるような毎日。
ちょっと歩けば汗ばむが、少しやすんだだけですぐ汗が引いて寒ささえ感じるほどだ。
今日から11月。いよいよ冬支度。

名所でなくても

ハンドルの休むひまなし紅葉山
ハンドルを切りどほしなる紅葉谷

紅葉のいいところに限って道が曲がりくねっている。

頭上にポスターから抜け出たような素晴らしい眺めがあっても、運転は気が抜けないので堪能するということは無理だが、不思議なことに記憶に長くとどまっている光景はそんな瞬間に目に飛び込んできた景色であることが多い。
おそらく紅葉の名所としては京都が一番多いだろうが、目に止まる紅葉というのはそんな名所ではなく、目立たない意外な場所にあるものだ。
今年は、どこでそんな紅葉を発見できるだろうか。

伊勢路青々

穭田の伊勢路弥栄穂の垂るる

伊勢平野はどこまでも青かった。

どこもここも孫穂が垂れて、北国と違って雁の仲間が来ないわけだから、雀たちくらいではとても食べ尽くせないくらいだ。
もしかすれば、鹿とか猪とか獣たちが降りてきて、ますます里は騒がしくなるのだろうか。

出汁とネタと

西のおでん戸惑ふ東国戎かな

最近はおでんというのはコンビニで買うものらしい。

スーパーでもおでんのネタセットが売られているが、なにより手軽さが受けて若い人に人気なのであろう。
本当は鍋で炊いて、いろいろなネタの味がしみ出た、その出汁ごといただく方がうまいと思うのだが。
そのおでんにも当然地域色があって、ところ違えば具もまた違う。
長年関東で過ごした人間にとって、ちょっと見馴れないネタがおでん鍋に詰まってるのを見ると、手を出すにも少しばかり勇気がいる。

今夜は急に冷えてきた。これから数日間さらに冷え込む日が続くという。
おでん恋しいシーズンがやってきた。

ふろふき大根

猪口とって女将に一献温め酒

燗酒が恋しい季節となってきた。

歳時記に陰暦九月九日から酒を温めて用いれば病なしという言い伝えありとある。
たしかに、虫の声がいつの間にかしなくなってるし、夜の空気が違ってきている。体も温かいものを求めてくるのだろう。
日本酒はうまいが、熱燗は苦手だ。アルコールが一気に蒸発しているようで、口元を寄せるだけで蒸せてしまう。人肌からちょっと熱目というのが合っている。
夜食べたふろふき大根もうまかった。濃いめの味噌味なら肴にはよく合うと思う。

運動会のおやつと言えば

初物を下げていただく青蜜柑

今年の蜜柑は甘い。

10月の蜜柑というと運動会のおやつという記憶があって、それら初期に出回る蜜柑にはさらにまた酸っぱさを伴うイメージがある。
だから、あんまりこの時期の蜜柑は好きではないのだけれど、まずはいただいたものを仏壇にそなえ、お残りの皮をむいてビックリ。実に甘いのだ。しかも、正月の蜜柑と違って甘さに上品さが加わっている。
この甘さなら一度に何個もいただけそうで、あっという間に果物皿が空になってしまった。