かなかなは遠し家々黒き影
夕刻、遠くに蜩を聞いた。
気がつけば、もうとっぷりと暮れており、脊山も家々のシルエットも黒々としている。
どの家にも灯りがついて、盆休みの終わった家々に灯りが戻った。
秋を実感した瞬間だ。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
かなかなは遠し家々黒き影
夕刻、遠くに蜩を聞いた。
気がつけば、もうとっぷりと暮れており、脊山も家々のシルエットも黒々としている。
どの家にも灯りがついて、盆休みの終わった家々に灯りが戻った。
秋を実感した瞬間だ。
梵鐘の銘を目で追ふ敗戦忌
戦死者を刻す鐘鳴る敗戦忌
戦後に鋳造された梵鐘は多い。
なかには、はっきりと戦死者の名を刻んで、さきの戦争に散った若者たちのために作られたものもある。
ひとつの村で梵鐘の半面をおおうほどの戦死者の名があるということは、村の大半の若者が犠牲になったということである。
家人の実家の墓で見た七基の従兄弟同士の規模をはるかに上回るものである。
理由もなく自国の優位性をひたすら信奉し、何やら勇ましい発言があちこちで聞かれる昨今、かつてそういう言動をとった人たちに限って戦後もちゃっかり、しかものうのうと生き延びた人が多いことを忘れてはならない。
サイレンの尾や少年の夏果つる
今年は100回記念とかでチーム数、試合数が多い。
まだ二回戦だがいくつものチームが消えた。
試合終了のサイレンの尾が引いて、負けた球児たちの夏が涙とともに終わるのはいつもの光景。
優勝するためにはいつもの年より多く勝たなければならないだろうが、猛暑のなかでの連戦が続けば疲労の度はますますつのる。これまでにも、何人もの選手が足をつったりする場面が見られた。
体調を整えながら勝ち進むのも、チームの実力のひとつ。暑さに負けないで最後まで悔いのない戦いを祈るのみだ。
当番を代わつてやりぬ盆初日
近所からワンボックスカーが一斉に消えた。
地元出身もなかばいて通常と変わらない家もあるようだが、九州や中国の実家に帰省しているとみられる家も多い。
今月ゴミ当番のお隣さんも、孫の顔をみせるべく帰省したので、何も予定のない爺婆の家がその間の代役を引き受けた。
今日の月曜日が生ゴミ収集の日で、暑くならないうちにと収集車のチャイム音が遠ざかるのを待って後片付けにかけつけた。
帰省のせいかどうか、ゴミの量もいつもの月曜よりいくぶん少ない。
みんなが夏休みに入る時期でも、休みなしで公共サービスが受けられるのはありがたいことだ。
百選の水も土産に新豆腐
どの家にも百選の山の水を引いている。
戸口の蛇口、おそらく打ち水用だと思われるが、にも水があふれるほど兎に角水が豊富なのである。
道路をはさんで行者宿が並ぶなかにあって、豆腐店が何軒かある。
水いいところに豆腐有りである。
もちろん陀羅尼助丸も特産。
シッターを猫に残して帰省かな
今年の夏は誰も帰らないらしい。
わが家同様、猫を飼っているということもあって、まる一日家を空けるのは容易ではない。
動物ホテルにうまく適応できる子たちであればいいのだが、そうではない場合、うまく留守を預かってくれる人に水や食事とトイレの面倒をお願いするしかない。
そんなこともあって、年に一回帰省できればいいほうである。
この盆は爺婆だけの静かな三日になりそうである。
夏の帰省は旧盆のケースがほとんどである。だから秋の季語としたほうがうなづけるのだが、かつては夏に帰るのが通例だったのかも知れない。
中元の礼者見馴れぬ背広着て
半農半杣というのだろうか。
日焼けしていかにも農夫、樵夫という風袋の男が、今日は珍しく背広を着て集落を巡っている。山の集落ではこうした盆暮れの挨拶は欠かせないものだが、一張羅の背広というのはすぐに分かるし、決まってノータイというのもこうした山村では礼を失したことにはならない。
父母の田舎もすっかり過疎の集落と化して、今ではこうした盆礼者の姿だってもう見られないかもしれない。