台風の盆地に遅き風と雨
地理的な理由だろうか。
ここ大和盆地北西部はいつも雨が少ない。
中央構造線沿いの山々、金剛、生駒山系にさえぎられて雨風が届かないのだろう。
今日も、吉野方面からフェーン現象としか思えないほどの熱い風が運ばれてくるだけで、明るいうちは雨の気配が全くしない。
近づけば急に荒れてくるとのことなので、庭の細々とした物を片寄せたり、窓から簾を外したり、それ相応の対策は打ったが、今夜も闇の台風に耳を傾けながら床にまんじりともしない時間が続くのだろうか。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
台風の盆地に遅き風と雨
地理的な理由だろうか。
ここ大和盆地北西部はいつも雨が少ない。
中央構造線沿いの山々、金剛、生駒山系にさえぎられて雨風が届かないのだろう。
今日も、吉野方面からフェーン現象としか思えないほどの熱い風が運ばれてくるだけで、明るいうちは雨の気配が全くしない。
近づけば急に荒れてくるとのことなので、庭の細々とした物を片寄せたり、窓から簾を外したり、それ相応の対策は打ったが、今夜も闇の台風に耳を傾けながら床にまんじりともしない時間が続くのだろうか。
秋蝶の水場に朝をむさぼれる
skyblueさんへのコメントで書いたように、この朝散水栓のわきで揚羽が1頭羽根を閉じている。
もうとっくに活動を初めてもいい時刻だと思うが、しばらく眺めていてもいっこうに発つ気配はない。
と言って、弱り切っているわけでもなさそうである。というのも、水道の水がはねたりしたら、微妙に位置をずらすのだから。
もしかして、今朝大きな蜂がまとわりつくように飛んでいたので、危険を避けていたのかもしれない。
羽に傷んだ様子もなく大変美しいし、まだまだ飛び回ることはできるのではないかと、そのままそっとしておいた。
昼過ぎに、もう一度確認してみたら、やはりもう揚羽蝶の姿はどこにもなかった。
きっと、休憩をとってまた暑い空へ飛び立ったのだろう。
稲妻やうかがひ知れぬ虫籠窓
寺前町の今井町もそうだが、奈良町にもまだまだ古い商家が残っている。
ちゃんと保存されているときには虫籠窓が塞がれることはないが、そうではない場合は物置同然になっていたりしてせっかくの意匠ももったいないことである。
今年の大和の稲の花は遅いような気がしたが、はたして稔りは期待できようか。
くまぜみの腹を見せずに落ちゐたる
さしものクマゼミも最後には地に落つる。
ゴーヤの棚にしがみついていたのか、最後の力もつきてその下に落ちていた。
さすが、蝉の王者らしく、腹見せて裏返るような無様な姿は見せない。
それにしても、王者がいっせいに消えたのに、油蝉の姿は全く見られない。駆逐されたと言うことだろうか。
初秋や蛇口吐き出すぬるき水
やれうれしや。
連続で秋の朝を迎えられるとは。
一昨日の朝などは、夏掛けでは寒いくらいであった。
日中も空気がからっとしてて、快適だ。
だが、そとの日射しの強さはどうだ。帽子や日傘なくては一分と立ち止まっていられないほど、チリチリ灼けるのは真夏に同じ。
この涼しい空気とともに、足もとにはクマゼミが落ちているのを見るようになって、ようやく蝉の主役も交代時期かと思う。
イソヒヨドリ君が久しぶりに電柱の天辺で、あのかわいらしい声を聞かせてくれるのも愉しい。
朝の蛇口の水の温さに驚くのも、急な秋の訪れのことで当然であろう。
御歳を羞じらひもする生身魂
往年の喉を鍛えて生身魂
テレビを見ていたら、往年の名歌手が生出演していた。
御年92歳と紹介されて、恥ずかしそうにはにかむ姿にひととき心が和む。
今でも毎日発声練習されているとかで、あの菅原節を久しぶりに聞いた。
雀百まで踊り忘れずというが、歌い続けることで心身の健康を保ってこられたのには見習うところがあるかも知れない。
とうすみの灯りにうかむ夜の底
夜の庭に、はかなげに蜻蛉がゆらめいている。
「とうすみ」とは「とうすみとんぼ」のことで、行灯のひも状の芯(とうすみ)に似ているので、灯心蜻蛉(とうしんとんぼ)とも呼ばれる。いわゆる、「いととんぼ」のことである。
夏の季語であるが、どちらかというと晩夏、初秋のイメージが強い。
急に寒いほどの夜、高くは飛べず地の底を這うような感じで、灯りに吸い寄せられるようにふらふらとやってきたようだった。
先日の吉野の句会場では、精霊蜻蛉が群れ飛んでいたし、空気は完全に秋だ。