惜別ということ

暮るるまで別れ惜しめり秋日和

今日は身内の人たちとしゃぶしゃぶを囲み別れを惜しんだ。
ある年齢以上の者どうしにとって、別れというのは特別の意味をもつ。
たとえ今は元気であろうと、明日のわが身の保障がないからだ。
去りがたく最後はカラオケで盛り上がったあと、お互いの健康を案じつつお開きとなった。

かほりと季節

新聞を取り出す朝の木犀かな

人工的な匂いが苦手だ。
車や部屋の芳香剤などはちょっと嗅いだだけでも頭痛になりそうだ。
ところが、花の香りならばよほど強いものでなければ問題ないのが不思議だ。

その花の香りといえば、日本人なら誰でも木犀を一番に挙げるのではないだろうか。
香りと季節との結びつけがこれほどぴったりするものはないからである。

今朝郵便受けに新聞を取り出しに出たら玄関の辺り一面が木犀の香りに包まれていた。

鍋は冬だけか

芋の葉の擦れ合うばかりに育ちたり

いかにも肥沃な畑だ。
茎太く畦間を覆うほどに茂った葉の濃緑はなぜか安心感をもたらす。

うどんすき 余りし芋で おでん炊く

送別会でうどんすきを振る舞ってもらった。
食べきれないくらいの具を用意されたとみえ、あまった材料まで頂戴することになった。
日高の昆布、枕崎の鰹節を使ったという出汁は絶品だった。

意外な穴場

幾色と知れず赤目の紅葉かな

まだひと月ばかり早いと思うが意外に三重・赤目の紅葉はすばらしい。
30年近く昔の話だが、見上げるような峡谷を縫って走らせていたとき、突然眼前に広がる雑木の紅葉に息を飲んだことがある。
黄、金、赤それぞれに微妙に色合いが折り重なるようになった紅葉・黄葉の世界である。
その色数をひとつ、ふたつと数えてみるがとても数え切れない。

願望

岳人にあらば我が眼に草紅葉

どうも山には縁がない人生らしい。
どこに行くにも車、車の来し方で自分の足で歩くということを避けてきたともいえる。
しかし、テレビなどでアルプスなどの映像を見ることは好きである。
今朝も涸沢小屋からの中継があったので画面に釘付けとなった。
10月には草葉が紅葉する光景が眼前に広がるというが一度でいいから見てみたいものだ。

俳風

三冊目の歳時記届く冷ややかに

そろそろ句作りは師につく時期に来ているのではないだろうかと考えている。
いくつか歳時記を買ったが、今度は「ホトトギス新歳時記」、いわゆる虚子系のものである。一方で現代俳句と呼ばれるものもあるが、抽象的、対比的な句が苦手であるし、そういうものを詠む前に基礎的なものを学ぶ必要があると思うからだ。
さいわいにも関西には多くの句会があり、その中からホトトギス系句会に入会するつもりである。

南へ

足柄を渡る鷹らに白高嶺

足柄峠では南への鷹の渡りが観察できる。
9月下旬頃がピークだが、そのころはまた富士の初雪も観察できるシーズンである。
渡りの中心となるサシバは、生息地となる里山の環境激変のため、その数がめっきり減っていると聞く。
せめて、峠を越えたら冠雪の富士を楽しんでもらいたいと願う。