さっぱりする話

蒸タオルされてうつつの春隣
部屋に綱打つ日さだまり春隣
真新しき明け荷三つの春隣
房総へフェリーそろりと春隣

毎日「寒」の句ばかり続くので気分転換。

一足早く春を呼んでしまおう。
というわけで、散髪屋でさっぱりする話。
最近は千円カットなる店が増えたが、シャンプー、ひげ剃りのサービスはなく、ほんとにカットするだけの店だ。
シャンプーがないというのはほんとに困りもので、細かい切りくずが首筋などから入った日にはかゆくてたまらない。
やはり散髪屋となると、たとえ子供でも耳の周囲、首筋、額の生え際、眉毛まわりなどはちゃんと剃刀を当てるのが普通だったし、シャンプーも丁寧に二回してくれるのが普通であった。
窓から暖かい日差しも入って、暖房がよく効いている上に、湯を沸かしたりタオルを蒸す蒸気もあって湿度も充分とくれば、そこはまるで温室である。蒸しタオルされてしばらく放置されてる、ほんの短い間にもすぐに睡魔がおそってきて、あとは半分眠ったまま顔を剃られている。終わってさあと椅子を起こされても、そのあとのシャンプーの気持ちよさが続きまだまだ魔術は覚めない。
関西ではシャンプーの最後はさあと顔を自分で洗うように促されるが、ここらあたりでようやく頭がすっきりしてくるという次第だ。

横綱昇進伝達式と口上。田子の浦部屋にはもう春が来たようです。

降りみ降らずみ

つぎの日に雪消え残る真土かな

夜の間に降った雪が僅かばかり解けずに残っていた。

雪は芝や石の上に落ちても積もることはあまりない土地だが、今回は花壇や菜園など土が露出している部分に降り積もったようである。その理屈はよく分からないが、雪をふんわり受け取るような土の柔らかさや、逆に土が雪に保護されているかのようにも思えてくる。

今日も一日雪が降ったり止んだりする天気だったが、終日気温が低かったせいか夕方になっても黒い土の上に積もった雪は解けなかった。

荒ぶる神も

和魂の舞ふや龍田に風花す

大和川が大阪に抜ける狭隘な部分を風が吹きぬけてくる。

まるで鞴のようだ。地形で言えばちょうど関ヶ原のようなものかもしれない。
龍田に風の神が祀られたというのも、そういうような地理的な要件が関係しているかもしれない。考えてみれば、外つ国からの到来物も龍田を経由して大和に入ってきたわけであり、邪悪なものが入り込まないようにと言う願いもあったはずだ。
龍田の荒ぶる神がお怒りになると、国には災害が頻発し凶作、疫病も流行るわけで、昔から風鎮めの儀式がおこなわれてきたことは万葉の歌にも詠まれている。
だから、日照り雨ならぬ日照り雪が風に乗って飛んでくるというのは、むしろある意味で龍田の神のご機嫌がいいときで、さながら和魂が舞い降りられるようなものかもしれない。
大和川の河川敷に立って、龍田に向かうと信貴山颪にのって三諸の山からさかんに風花が舞いくだってくるのがよく見える。

堂内底冷え

神将の像にそれぞれ寒灯
円陣の神将ほのと寒燈

新薬師寺のお堂は暗い。

ただでさえ暗いうえ、底冷えのするような寒さが加わり、思わず五体は引き締まる。
本尊の薬師像は僅かな光に浮かび上がっているが、婆娑羅大将に代表されるお守りの十二神将はとくに灯りはなく、それぞれの干支の人による献灯が揺らいでいる。

ひと気が引いて

転げゆく登大路の寒暮かな

「古事記のまつり」が春日野の国際フォーラムで行われた。

これは奈良県がすすめている「記紀・万葉」プロジェクトの一貫で、昨年のまつりの様子は2016年古事記のまつりで見られる。
今年は、これに加えて古事記をテーマとした落語、高千穂神楽などのアトラクションも加わって盛りだくさんの内容である。
朗詠の部は恒例の県知事にはじまり市町村首長が古事記上の巻をつぎつぎと朗詠。子供ミュージカル、小さい児を含めた家族、県内の有名幼稚園園児、古事記朗詠や万葉朗詠のグループ、ほかのさまざま市民団体・個人が原文であるいは現代語訳で、はては英訳文で自慢の声を披露する。熱演がすぎて時間をかなりオーバーするほどの熱の入りようだ。
子供から大人まで幅広く古事記や万葉集にかかわる人たちの多いこと。さすがまほろばの土地だけのことはあるなと感心した。

時間にして3時間半休みなくつづくので、断片的にしか記憶していなかった古事記のエピソードがひとつのストーリーとなって整理することができた。ただ、いつも頭を悩ますのが神さまの名前で、なんべん聞いてもちっとも覚えられない。今日も50あるいはそれ以上の神さまが登場したが、家に帰ってみたらきれいに忘れ去られている。

日脚が伸びたとはいえ、終わって外へ出たときは薄暮を過ぎ、最小の灯りしかない奈良公園は帰路を急ぐ人たちの姿はシルエットくらいしか見えない。わずか残った観光客に群がる鹿もいるが、総じておとなしくしていて動かない影が多い。

冬雀

一羽また一羽ふくら雀かな

ジョー君に替わって今朝はモズ君。

まるでふくら雀のようにぷっくらとしたままフェンスに停まって隣の空き地を伺っている。
餌はなかなか見つからないようで、しばらくは尻尾を上下に震わせながら家族の目を楽しませてくれた。

本家の雀はというと、こんな田舎でもあまり数は多くない。
駅のホームから列をなして日向にいるのを眺められた昔が懐かしい。

春待つ心

探梅の一枝指に添はせては
バス乗るやはや探梅の目になりて

ちらほら梅便りが届き始めている。

有名な梅どころならば開花情報を確かめて現地に行けば梅が楽しめるわけだけれど、「探梅」なる言葉を珍重する俳人というのは面白い人種で、開花している保証はなくても時節がくればとにかく吟行先へ行って開花しているのを見つけては喜ぶのである。梅の開花を発見するための苦労や、あるいは発見してはその苦労を句に詠むわけである。
だから、別に開花してなくたって一向にかまわない。咲いてそうな場所や雰囲気さえあれば、それを探梅と称して楽しむのであるから、一般の人にはなかなか理解されない行動であろう。

ある意味、俳句は季節をすこし先取りして詠む傾向にある。寒さの極にある今だからこそ春を待ちわびる心がいっそう募ってきているということだろう。