枯芝の宗派問はざる墓地半ば
犬ともに枯芝つけて帰りたる
芝枯れて後円墳とすぐ知れる
芝生が枯れきる季節である。
芝生が青々としていると人は中に立ち入るのをためらうが、枯れ芝となるとちょっと違うようである。
なんの躊躇もなく芝生を横切りたちまち近道ができてしまう。そうしてこれが重なると、その部分が裸地となって芝生が惨めな状態と化すのである。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
枯芝の宗派問はざる墓地半ば
犬ともに枯芝つけて帰りたる
芝枯れて後円墳とすぐ知れる
芝生が枯れきる季節である。
芝生が青々としていると人は中に立ち入るのをためらうが、枯れ芝となるとちょっと違うようである。
なんの躊躇もなく芝生を横切りたちまち近道ができてしまう。そうしてこれが重なると、その部分が裸地となって芝生が惨めな状態と化すのである。
蝋梅の一木で足る甘さかな
探梅の道につんと香りがある。
蝋梅である。それも、日陰がちな場所でやせ細った枝ばかりであるが、香りの強さは変わらないようである。
思わず近寄って枝を顔の前に寄せてみる。なんとも甘い香りだ。年の暮れから始まって間もなく寒が明けるという時期まで随分花期は長い。
肝腎の梅は半分ほどほころんでいるのもあれば、まだ蕾のものも。ただ、蕾といってもいくぶん膨らんできているような気がする。
今日の鳥は、モズ、エナガ、シメ、イカル、ツグミ、鶯、ルリビタキ(ただし、雌)、メジロなど。水鳥は先日に同じ。
携帯電話袂に透ける雪女
いまどき雪女といえば、お化け屋敷くらいにしかいまい。
アルバイトの女が雪女に扮しているが、透けた着物の袂には携帯電話あるいはスマホが滑り込んでいるという。
もう徹底的にパロディ句である。
水仙のかしら中して日の溜まり
水仙は太陽の方へ向いて咲くのではないだろうか。
たいがいが日のよく当たるところに植えられているせいか、喇叭が南の方へ向いていることが多いように思える。
誰が号令をかけるわけではなかろうが、兵卒の敬礼に似ているような気がした。
馬見丘陵の鶯はまだ笹鳴きである。初鳴きまではあとひと月くらいだろうか。
今日目撃した鳥。鶯、四十雀、メジロ、コゲラ、ジョービタキ、アオジ、白腹、トラツグミ、ウズラ、鵯、烏、水鳥では大バン、バン、鴨、金黒羽白、真鴨、小鴨、カルガモ、川鵜、青鷺。みな枯れて鳥が探しやすい。
大底を打って四温の一日目
3月の陽気だという。
たしかに暖かい。
今までは一方的に冷え込みが続いていたが、これよりは一進一退しながら春に向かうのが実感できる日だ。
竝びなき独楽の名手は今パパに
紐巻くも引くもほどよく独楽のこつ
投げ独楽の宙へたかだか掌に受くる
投げ独楽の宙に紐解く視線かな
一つだけ勝ち越すほどの独楽の友
左利きの流れるやうに独楽回す
何年も見てない。
道路で子供たちが独楽遊びしている姿を。
独楽遊びといっても色々あって、俳句では競技独楽の句が多いが、自分の経験では普通の回し、投げて手のひらに受けるなど単純な遊びに終始していたような記憶がある。
一個の独楽を大事に使ううちに、心棒が緩んできたり、削れてきたり。そういうのを手を入れながら一冬遊ぶのである。誰もが好きな独楽を一つは持っていたものだ。
冬山の太郎次郎を町に駆る
一年に一度あるかどうかの美しい大峯を見た。
今日のように、一日中晴れて空気が澄んだ日で、暮れる前のほんのしばらくの間だけである。
というのは、自宅からみる昼間の大峯は逆光となり、山稜が黒々と見えるだけで山容、襞の重なりが見えないからである。夕日が大峯に当たるとき空気が澄んで視程がきけば、ようやく山の北西側部分の全容がくっきりと浮かぶのが見える。
今まで、台形のように一体に見えた弥山、八経ヶ岳が実は全く別であること、いろいろなピークが重なってどれが女人禁制の山上ヶ岳なのか分からなかったのが今日はそのピークがはっきり認めることができた。想像以上に凸凹した状態の山が幾重にもつながっているのだ。
奈良県は吉野川を境界として南側がすべて山である。県土の80%以上はあるんじゃなかろうか。山の間を塗って集落が点在するわけだが、どの村も人口減、村落消滅の危機に瀕している。
廃校が相次いだり、何百年も守り続けられてきた伝統行事が若い人たちがいなくなって維持できなくなったり、そんなニュースや話題が夕方のローカル放送でいくつも流される。同じような話では、男鹿半島でも若い衆がいなくなった集落では、高齢者が鬼の役をして各戸を回っているという。おそらく全国レベルでこんな事態がすすんでいるのであろう。
掲句の冬山は単なる冬山ではない。生きることが切ない山の暮らしの象徴である。雪に降り積もられる屋根の下はどこにも、もう子供の姿は見られない。