東海道急ぎ旅

宝永山さだかに富士の裾霞

東海道は山桜、富士が素晴らしかった。

新東名というのは旧の東名高速より山よりを走るためトンネルが多いことは知られるが、実は山桜の道路でもあった。南アルプスの南の外れの山がトンネルを抜けたと思ったら次々と眼前に現れて、山桜が裾から上まで点々と彩っているさまは、吉野もかくやと思えるくらい見事なものである。急峻な山肌のようだから、きっと長い時間をかけて鳥たちがサクランボの実を運んだのではないだろうか。
ふつう長い静岡県を走るのは退屈なものだが、おかげで今回は往復とも疲れ知らずのドライブを楽しめた。おまけに、この季節には珍しく遠目にも富士山の山肌がくっきりと見えて、裾の方はうすく霞がかかっていたが宝永山の噴火口は鮮明にとらえることができ、その大きさを見ればここから関東各地に大量の灰を降らせたことも容易に想像できるのだった。

体が動くうちは

楤の芽を掻いて臨時の店開ける

ちょっと深いところを走っていると街道沿いに小屋がけの店があったりする。

春には山菜、夏には竹の子、西瓜が、秋には茸が並ぶおなじみの光景だ。
歳とともに多くは並べられなくなったが、それでも体が動くうち、山の恵みがあるうちは続けたい。

今日も予約投稿。

自分で育てる

開いても余るばかりの種袋

花種の一袋でどの程度の花壇の広さが必要となるのであろうか。

限られたスペースでは、たいがいが少し使うだけで大半を余してしまうのが普通だろう。
だから、数多くの種類を楽しむには種を蒔くよりは苗を買うほうが手っ取り早い。

それでも、種から育てる楽しみというのもあって、例えばアサガオなどは子供の頃もそうであったように種から育てるものだと決めつけている。

急に上京することになり、今日明日の分は予約投稿になったので、コメントいただいてもすぐには反応できませんのでよろしくお願いします。

仏様になる

耳遠き妣には聞こえ亀の鳴く

実際に亀が鳴くことはない。

ないが、「鳴く」を空想して一種春のけだるい空気を詠んだりして、浪漫的な興趣を覚えさせる季題である。
老いて耳が全く聞こえなくなるとともに、記憶も随分定かでなくなってきた妣が、あるときついと振り向いて何事か言う。たいがいは人生の一断面をよぎった事柄を思い出してのことであるが、その顔はもう昔の母の顔ではなく、日に日に仏様のように穏やかになっていくように思う。息子はただ頷くだけある。

光る大鴟尾と

大仏殿いよよ華やぎ桜かな

東大寺境内の桜がようやく始まった。

一部の桜はすでに満開状態のものもある。その枝をすかして夕日を受けて金色に光る大仏殿の大鴟尾が眩しい。

心浮き立つ

飛鳥川佐保川堤開花せり

奈良盆地の染井吉野が咲き出した。

句会への途中飛鳥川を渡ると、土手の枝先にちらほら白い花が見える。これはいよいよ開花だなと思って、奈良市内のひとに尋ねると佐保川堤も開花した模様である。
先発のエドヒガンはとうに咲いていてそこの一画だけ弾むように明るい。盆地はやがて染井吉野の華やかな賑わいをみせ、これが一月かけて吉野、宇陀の山中に進んでいくのだと思うとなんだか心が浮き立つようである。

産直店にて

見比べどどれと決まらず花の苗

産地直売のお店。

野菜やお菓子に混じり花苗も並んでいる。素朴なものもあれば豪華なもの、花色も白赤さまざまなでどれも甲乙つけがたく、結局お土産はいつも通り鯛焼き。
あまりに美味しそうな匂いに途中で食べてしまいたい誘惑に駆られるが、何とか我慢してそのまま無事持ち帰ることができた。ここでも花より団子というわけか。やれやれ。

最後に県立万葉文化館に立ち寄ったら、『天上の虹』作品展開催中だったが、時間切れで再度の訪問に楽しみを残しておくことにした。5月31日には作者によるトークショーもあるようである。