花芽進発

牡丹の燭燃ゆるごと芽吹きけり

開花宣言はまだか。

ニュースに注意しているが、どうやら今日も見送りのようだ。もっとも、今日は冬に逆戻りしたような寒さなので開花が足踏みして当然とも言える。さらに、今聞いたばかりの予報では明朝は零下一度だそうだ。真冬並みだ。
桜は足踏みだが、花の女王とも言える牡丹はいよいよ花芽が動き出したようで、炎のような萌えの中に包まれてふっくらとしてきた。

解放感

香も色も指に移して草を摘む

昨日の「野遊」に続き「摘草」である。

場合によると、弁当を持って野遊びを楽しみながら芹などの草を摘んでいることもあろうか。今まで、草摘みしたことがないどころか、草の名さえおぼつかないくらいなのでイメージしにくい季題ではある。

家の中に閉じこめられていた毎日から野に出て遊ぶというのは、現代では想像できないくらいきっと晴れ晴れと開放される気分に満ちあふれるものだったにちがいない。

死語

野遊や手指につきし草の汁

「野遊」は今でいうピクニックのこと。

あるいは、もしかしたら「ピクニック」自体がもう死語に近くて、元の意味では使われなくなったとも言えようか。単に野に遊ぶことに飽きたらず、何らかの行楽を伴った外出というニュアンスでもって漸くピクニックという言葉が存続しえる状態とでも言えようか。
「ドライブ」も同様で、単に車で遠乗りを楽しむというような人はまれで、車で出かけて何かをしたり見たり泊まったりなど何らかの目的のための移動手段に成り下がった現代ではもはや死語だ。車を持つこと自体が目的とされる時代はとっくに終わりを告げているとも言える。Fun to driveというキャッチも、ガソリン高の時代となってはなかなか実感しにくいものだ。

世の中いろいろ便利になっていくのはいいが、一方でささやかでいて健康的な楽しみが少しずつ奪われていくのもどうかと思ってしまう。

鎮魂の吹奏

英霊に喇叭吹かする黄水仙

彼岸の墓参に行ってきた。

校歌に謳われた山も、その前山も遠霞がかかってまさに彼岸日和。
いつものように、連れ合いの親戚の墓にも花と線香を捧げに行ったところ、先にお参りした跡があって黄水仙がたむかれている。七基並んだ墓碑を読むと、それらすべては先の大戦で中支、泰国、比島、レイテ島などアジア各地で命を落とした若い兄弟、従兄弟たちのものである。黄水仙は喇叭水仙とも言われるが、まさに散った英霊の御魂に鎮魂の吹奏を捧げるように花弁を高々と突きだしていた。

春霞

二上は見えて葛城かすむ窓

ここ連日、麻起きると霞がかかっている。

家からは何とか二上山の姿は見えるのだが、その先の葛城、金剛山がはるか霞の中だ。
まことに春霞とはよく言ったもので、雨の日以外で葛城山が見えない日が二日以上続くのは春だけだ。

旅立ちへ

十八へ眼差しぬくし住民課

いま住民課窓口が混み合っている。

転勤、進学、就職など人生の節目の時期である。
なかには、他府県への進学だろうか、転出届け出にきた不安そうな親子にも住民課窓口が丁寧にやさしく対応している姿が印象的であった。
思い返せば、半世紀も昔、自分の18歳は受験失敗から予備校入学までの準備に忙しくて卒業式にも出られなかった慌ただしい思い出しかないのがほろ苦い思い出だ。

住宅地の黄花

新興の向こう三軒山茱萸黄

遠目にも黄がはっきりとかかっている。

昨日ふれた隣の住宅地。近寄ってみると山茱萸の花だった。時期的にはもう遅いと言ってもいいくらいだが、花の期間はわりあい長いようだ。春の先駆けを代表する黄花であるが、秋には秋で真っ赤な実が楽しみ。