急に開けたが

砂防ダム埋もれて永し花茨さぼうだむうもれてひさしはなうばら

急斜面の道が突然開け大きな広場が姿を現した。

過疎が進んで行政も手をかけられなくなったのだろうか、かつて土砂災害防止のために設けられた砂防ダムが今ではほとんど土砂に埋まってしまっている。大きな木が生え、草花も生い茂り、ときまさに野ばらの花の盛りであった。

土砂に潜っていた細い水が堰のところで再び顔を出してちょろちょろと流れているのだった。

豊かな森

おびただし実生の椎の若葉かな

多武峰の山中は植生が豊かである。

下った道はまるで腐葉土そのものと言ってもいいほどで、柔らかでフカフカであった。
そんな環境条件に恵まれたせいか、落ちた実があちこちに発芽して柔らかげな若葉の色を発している。これらの苗はこれから厳しい生存競争にさらされ、多くが場所取り競争に敗れて大木までには成長できないだろうが、どの苗も少なくとも数年は生き永らえるんじゃないかとさえ思える豊かな土壌である。

椎のほかにも新しい苗がいっぱい顔を出し、珍しいものがあると案内役のスタッフの方から適宜説明があるが、とても覚えていられないほどの種類の多さである。なかでも、「室生天南星(テンナンショウ)」「花筏」「葉蘭の花」「水引」などが強く印象に残った。

声に安らぐ

隠れ沢めく谷筋の河鹿かな

杣の道を慰めてくれるものがいる。

藪に覆われていたりして水はよく見えないし、はっきりとした沢の音も聞こえてこないが、河鹿の鳴き交わしのようなとよめきが心地良い。
やがて、下るにつれて沢は川幅を増しそれと分かる姿を見せてくれるのだったが、なぜかその頃には河鹿の声は聞かれないのだった。

杣の道を下る

勧進縄わたす欅の若葉せる

生田地区の勧進縄
今日は久しぶりの「鎮守の森を観にいこうかい」。

桜井駅から一気に談山神社までバスで登り、多武峰から安倍文殊院まで降りてくるコース。
それも普通の人はあまり利用しないような、むしろ杣道と言っていいくらいワイルドな道を降りるコースで、足元ばかり見るようではあるが、ところどころガイド役の方の説明もあって多少救われる下り道である。
そこは植生も豊かで、とても覚えられそうもないほどの草花や樹木がある。里の春の花は終わったが、どうしてどうして山にはまだ花がいっぱい。

卯の花をたどり勧進縄の村

卯の花の道

定家葛と忍冬が絡み合っている
定家葛と忍冬が絡み合っている

数多くの古墳群があるという高家(たいえ)地区を過ぎ、卯の花、定家葛に導かれるようにして辿り着いた集落の入り口には勧進縄が渡されていた。その一方を支えるのが大きな欅の木で、折しもの若葉が明るい陽を照り返している。
勧進縄というのは一般的に雄縄、雌縄の一対があるのでもう一つあるはずだと探してみたが、とうとう見つからずじまいで集落を抜けてしまったのが心残りとなった。ということは、邪気の入り込むのはあの卯の花の道からだというのだろうか。

締めくくりは、幕末から明治中頃にかけて膨大な日記を残した高瀬道常という人の古文書と、それを原稿用紙2,400枚に転記して世に知らしめた研究者の講釈を聞くことができた。日記とはいっても、個人的日記ではなく世界情勢を含めた広い学識に裏付けられた貴重な「当時の世相についての記録」であるのが特徴だ。当時物価が高騰したり、木綿などの価格が輸入品に太刀打ちできなったりして不景気になったのは、外国に門戸を開放した幕府のせいで、桜田門外の変すら溜飲をさげる数え歌に織り込まれていたこと、また逆に異人打ち払いの長州がいかに期待されていたのかという庶民の側から見た記述などとても興味深いものだった。

このように知的好奇心も満たされ、かなりきつい行程もいくらか緩和されるのであったが、後半に相当きていた足の明日は、はたしていかなるものだろうか。いささか気になる日曜夜である。

半袖

発句。これは花鳥諷詠という視点でボツの句。

末生りの腕みすぼらし更衣

主観を排して、

末生りの肌をのぞかせ更衣

そろそろ半袖シャツもいいかと思うのだが。

たしかに昼間の気温でみると快適だが、なにしろ盆地特有の朝夕との気温差がある。朝起きて「さあ、何を着ようか」という段になると、いつも迷ってしまうのである。

今日は良さそうだと思ってお気に入りの半袖ポロシャツを着たものの、もはや筋肉が落ち、肌の艶も失せた老人の腕というのをさらしてしまうのは、自分でも何とも情けないと思うのだ。

八つ橋の

光琳の配置もかくや花菖蒲

表紙写真は早咲きの花菖蒲らしい。

菖蒲園にはいろんな種類があるらしく、それぞれに名札がたっているが、今はほとんどがまだ蕾ができるかどうかとい時期のようで、上のように咲いているのはごく一部であった。
八つ橋を真似た木道のそばで咲いていたこの花の並びは、ぱっと見ただけで尾形光琳の屏風絵(ただし、あれは燕子花だが)を思い出させる構図をしているのが面白くて写真に撮り、句にも詠んでみたのだが。

にわか雨あがる

白蓮のつぼみはつかに掠めらる

雨上がりの池。

雨滴がぽたぽたと落ちるなか、蓮のつぼみが水面からなかば首を出し始めていた。その半分水面下にある蕾が一瞬揺れた。魚か、蛙か、それと確かめることもできないまま、水面はまた何事もなかったように静けさを取り戻す。

新緑の公園内を散歩しようと丘陵公園に出かけたが、もう夕立と言ってよいのだろうか、にわか雨、そして遠雷もきてしばらく車の中で待機するしかない。やがて雨がやむと、こんどはこの雨に洗われた新緑が息を吹き返したように生き生きとしはじめ、それを背景にして「ヤマボウシ」の白い花が鮮やかに浮かび上がってくる。よく見るとヤマボウシは林のあちこちに点在していて、花の時期以外は気がつくことがなかったが今まさにヤマボウシの時期なんだと知る。