秒針の刻惜しむべし屠蘇の酔
南天さんから「好きなだけ人生」のコメントをいただきました。
全く同感です。この歳になると一番大切なものは「時間」です。
残された時間に何をやるか、やりきれるか。エンディングノートなど用意するつもりは毛頭ありませんが、自分なりに満足できることを求めて今年も彷徨うことになるようです。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
秒針の刻惜しむべし屠蘇の酔
南天さんから「好きなだけ人生」のコメントをいただきました。
全く同感です。この歳になると一番大切なものは「時間」です。
残された時間に何をやるか、やりきれるか。エンディングノートなど用意するつもりは毛頭ありませんが、自分なりに満足できることを求めて今年も彷徨うことになるようです。
百種のいのち輝け初御空
あけましておめでとうございます。
エコノミクス一辺倒では心豊かな人生が得られないことは、現代の、あるいは歴史の諸様相から証明されている。たとえカネがなくとも、将来に不安さえいだかなければ人は豊かになれるものなのに。いたずらに将来の不安要素ばかりを増やす今の仕組みというのは何なんだろうか。大衆よ、早く気づけ。自分たちの選良がなすことを監視せよ。
人の浅ましさ、醜さはなるべく見ないように距離をおいて,自分なりの豊かさを味わう年にしたいと念じております。
今年もどうぞよろしくお願いします。
ゆくりなく拾ひし命年送る
それは、まったくの幸運だった。
たまたま半年の間隔をおいて心電図を取ろうということになり、その結果をみてすぐに主治医の先生が精密検査をしようと言い出したので驚いた。半年前のデータより内容が悪くなっているからということだった。精密検査の結果、カテーテル検査しながら場合によってステントを挿入するという。
あとでこそ「そうだったのか」と思えることも、そうといわれなければ自覚症状というのは全く感じていなかったのでひどく驚いたが、話を聞くと手術の中でも一番痛くない手術だそうで、検査の途中で思いがけない問題が生じない限りたいしたものではないという説明を信じて全てお任せすることになった。
確かに、手首から挿入するカテーテルのために局部麻酔注射のときだけチクッとしただけで、あとは全く痛みというのはない。強いて挙げるとすれば、新米らしき看護士が点滴のために射し込んだ針がうまくいかなかったようで、周囲が青丹になったうえちょっと動くたびに痛い。その痛みは退院するときに外してもらうまでずっと続いた。
いずれにしろ、この程度の痛みで命が救われたのだから良しとしなければいけない。
まして、「仲秋や吾を貫くカテーテル」を授かったのだから感謝さえも。
さて、今年もみなさまにも色々励ましを受けて、何とか無事に年が越せそうです。
今年一年拙い俳句におつきあいいただきありがとうございました。
どうかよいお年をお迎え下さい。
すべり台殿の子の着ぶくるる
奈良まちのある公園での光景。
保育園児十人ほどと保母さんが奈良公園の外れの小さな公園で遊んでいる。
めいめいの子をそれぞれ好きな遊具のところで遊ばせているのだが、そのなかですべり台の3,4人の子が目に映った。
すべっては登り、すべっては登りしているのだが、ダウンのコートを着た子がいつも決まったように列の最後なのである。
しまいにはすべり台にはすぐ飽きたようで、シーソーの方へ走ってゆく。
着ぶくれの子のすべり台すぐ飽きて
鶴翼の右より崩れ鴨の陣
月末は娘たちも来て慌ただしいので、俳句会への投函をいつもより早めに済ませた。
年賀状も余裕をもって、そして同窓生仲間との句会にも早くに投句したし、なにやら余裕の年の暮れである。これが仕事に追われる現役ならばこうはいかなかっただろう。
精神的にゆとりがあるせいか、大和川の鴨たちをしばらく観察していたらすっと掲句を授かった。自分で言うのも恥ずかしいが、今年のベスト・トゥウェンティをまとめた後だが、実はこれが俳句を作り始めてナンバーワンの出来ではないかと思うのだ。主観の混じらない、ただ見つめるだけで授かったと初めて感じることができた句であり、「客観写生」とはこういうことかとさえ思える「降りてきた」句なのである。
人からみると単なる類句、月次の句だと笑われるかもしれないが、自分としては短詩系のポイントである「驚き」「発見」を具現化しえたものだと信じたい。これからも自然体で対象に向かうことができるように鍛錬せねばと思うのである。
今年はいつもより小ガモが多く飛来していて、方陣とも円陣ともつかずに群れていた。一方で、やや大きいヒドリガモが拾い川幅いっぱいにV字を浅くした形で、まさに鶴翼然とした堂々とした陣を上流に向かって進んでいるかと見ているうちに、みるみる右端の鴨たちが川の中央へせり出してきてあっという間に崩れてしまったのだった。
妻の差配従うもまた年用意
台所の換気口掃除が終わり、今年最後のご奉仕が終わったようだ。
年末の妻の手際のいいことはすでに書いた。
一方の僕はと言えば、指示されたことを淡々とこなすだけ。「あれをやれ」と言われれば黙々とやるし、「あそこへ行け」と言われれば素直に行く。この「淡々と」「黙々と」「素直に」が非常に大事であるのは言うまでもない。
おかげで、我が家の行く年来る年への切り替えはトラブルもなくいつの間にか終わっているという案配だ。
予定より早めて明日、娘夫婦が来るというメールが入った。どうやら腰落ち着けてというわけにもいかず、ちょっと忙しくなりそうだ。
雪起こし帰路気がかりの句会かな
雪起こしならむ見合はす顔と顔
御酒すすめ余技も披露し納句座
今日は宇陀市榛原で行われている定例句会に初めて参加した。
結社に属してない、あるいは現代俳句派の人も含めて多彩な顔ぶれだ。この日は欠席投句を含め二十五人分くらいの出句のなかから選句中、二度にわたって比較的強い雷がなるというハプニングがあってその都度手を止めては座が騒がしくなる。
この宇陀はと言うと、神武東征ルートにあって国ン中に進出する際の足がかりとなった山間地域であり、国ン中よりなお寒い土地柄である。案の定、句会が始まる頃には雨だったのがいつの間にか霙に変わってきていた。さらに、句会の後の納会がはねていざ帰らんとする時にはとうとう粒雪に変わっていて頬にあたると痛いほどだ。まさしく、今日の雷は季語に言う「雪起こし」そのものであったわけだ。