甘い香り

大寺は花木大角豆の香の満てり

木大角豆の花の南国かもしだし

禅堂の裏手にまわるとたちまち甘い香りに包まれる。

元興寺の木大角豆
木大角豆の花

木大角豆(きささげ)の花だ。
秋になると、ささげ豆のように2,30センチほどの長さのさやができその実を漢方剤として利用される木だ。ひとつひとつの花を見るといくつもの蘭の花がまとまって咲いているように見え、いかにも南方から来た木だということが分かる。

高いものでは10メートルくらいになるというから、いつか極楽院禅堂の屋根も超える高さまで育つかもしれない。

木大角豆は実をもって秋の季語だが、花の時期ということで夏のものとさせてもらった。

梅雨晴間

片蔭をなすすべもなく破築地

空梅雨で、しかも気温が真夏並とあれば植物にとって過酷な環境となる。

しなびかけた紫陽花

元興寺・極楽院前の築地塀沿いに咲いていた紫陽花は、気の毒なことに正午の強い日差しを真上からあびて萎びかかっていた。

浮図田

石仏に影さしかけて萩若葉

浮図田(ふとでん)なる石仏群や萩若葉

浮図田の萩

本堂の左手に向かって回ってゆくと、浮図(浮図とは石塔・石仏のこと)田とよばれる石仏群が境内の奥のほうにまで連なってあり、初秋には桔梗、萩、そして彼岸花に彩られるという。そして、この浮図田のある位置からは本堂や禅堂の行基葺きといわれる瓦屋根がよく見える。大きな木の陰に立つと心地よい風も感じることができるので、さまざまな時代の瓦を眺めながら思いははるか飛鳥の時代を逍遥するのだった。

元興寺

元興寺極楽院の萩若葉

萩若葉揺るるにまかす古刹かな

萩若葉揺るるに任せ元興寺

僧房を取り巻く萩の若葉かな

元興寺極楽院の萩若葉

今日は奈良公園でまほろぼ句会。

この時期の奈良公園と言えば鹿苑で子鹿が公開されており、運良くば誕生の瞬間にも立ち会えるんだけど、あえて元興寺で粘ってみた。

元興寺というのは飛鳥寺を移築して造られた大変古い歴史をもつ寺で、平安時代の前期までは南都七大寺のなかでは東大寺に次ぐナンバーツーの位置づけをされ大変隆盛を誇った寺である。その寺域はいまの「ならまち」をすっぽり包み込むほど広大なものだったが、興福寺などのように有力な貴族の後ろ盾をもたない元興寺はやがて衰退し、今ではかつての僧房・極楽坊など一部だけがかろうじて往時を偲ぶよすがとなってしまった。

国宝に指定されている本堂(写真)や禅堂(本堂の奥)の瓦は、飛鳥寺を建立する際百済から遣わされた瓦博士によってもたらされた技術で焼かれたものがそのまま再利用されており、いわば日本最初の瓦である。さらに極楽院は萩の寺ともいえ、いまはその若葉が建物の四周を取り巻くようにして風に揺れている。

昆虫博物館

昆虫博物館の放蝶温室で

時なしの園に夏蝶ひらりかな

橿原市昆虫博物館の放蝶温室はまさにパラダイスである。

昆虫博物館の放蝶温室で

琉球列島の気温に調整された温室では、ハイビスカスなどの亜熱帯・熱帯植物が茂り、大蝶・オオゴマダラなどの南国の蝶が年間を通して優雅に舞う。
このオオゴマダラというのは羽を広げると幅10センチくらい。この大きな蝶がグライダーのようにゆっくり滑空するかと思えば、羽をゆっくり羽ばたかせながら舞うように飛んだりする。このように悠然とした行動には理由があって、この蝶の幼虫はホウライカガミという毒のある植物の葉を好んで食べ、この毒が成虫になっても体内に残存するので、襲う天敵がいないからなんだそうである。

これら蝶の餌となる植物の栽培温室や、卵からサナギまでを飼育する裏方の仕事場も見学することができたのは、「鎮守の森を観にいこうかい」の行事ならではのことで、大変有難い企画であった。

磐余の池跡にたつ

どの筋も三寸ばかり蜷の道

昨年だったか、磐余の池の堤防跡ではないかという遺構が発見され話題になった。

池の堤防跡
道路整備に際して調査が行われ、写真右の森から左の住宅地にかけて堰堤があったことが分かったという。周りを見てみると多武峰から緩やかな傾斜をみせながら盆地に向かって降りてきており、どれもが堤防になりうるような感じで、その昔あちこちに用水池があったとしても全然不思議でない地形をしている。
随行の纒向学研究センターの主任さんの話でも、「磐余の池」というのはいくつかの池を総称して言ったのではないかという説を披露されていた。たしかに、このあたりの地名の池之内とか池尻とかに池に因む名が残っているので「磐余の池」はここらあたりにあったのは間違いないのだろう。

謀反の疑いがかけられた大津が飛鳥京から訳語田(おさだ)、今で言う現在の近鉄・大福駅近くの戒重という字のあたり、の自宅まで護送されたとされる、その経路としてこの池のそばを通りかかったのは間違いないだろう。その日のうちに死を賜っているが、この池の名が詠み込まれている辞世の歌はあまりにも有名だ。一方で、妃の山辺皇女は半狂乱となって裸足で髪振り乱し皇子を追い自死したという話が伝わっているが、その皇女にとっては途中の景色などは全く目に入らなかったにちがいない。

いつの頃か池は埋められ昔から田として利用されたきたと思われるが、現代は無農薬農業を目指しているのかどうか、田植えをまつばかりという田には皆一様に10センチほどの、幾筋もの田螺の這った跡がある。いったい最後に田螺を見たのはいつのことだったのだろうか、あまりに遠くて思い出すことができなかった。