季語の流用

蒲公英や化して黄蝶の危うき哉

最初は蒲公英に蝶がとまってるのに気づかなかった。

近くまで来たとき、弱々しく翅を上下させて蝶が逃げたので分かったのだった。
まるで蒲公英がそのまま蝶になったような幻想的な光景だった。

本来「菜の花化して蝶となる」が季語とされるが、このような流用は許されるだろうか。

ギャラリー飛鳥園

ギャラリーの黒き切り絵や馬酔木咲く

切り絵作家西村さんの作品展に行ってきた。

光を浴びた陽の部分とそうでない陰の部分だけで構成された切り絵は、その大半を占める陰の部分を見る人の想像に委ねるという心象効果と相俟って素晴らしい立体像を浮かび上がらせることに成功している。
まさに、谷崎の随筆「陰翳礼讃」を思い起こされるような、陰の芸術といってよいだろう。

満たされた気分でギャラリーから出たら、薄紅い馬酔木の花が目に飛び込んできた。

草の座布団

母子の摘むクローバーの束乳母車

陽気に誘われ、若い母親と幼子が河川敷に降りて散歩中。

しきりに草の上で何かを探す風なので訊いてみると、四つ葉のクローバーを探しているという。
四つ葉はなかなか見つからないので、移植用に小ぶりの株を持ち帰ると。

花粉注意報

児童らのサッカーする声鳥帰る

毎週水曜日は学童保育の子供達が河川敷でのびのび遊ぶ日。

久しぶりに河川敷を歩いたら、ヒドリガモやコガモたちはいつものところに群れていたが、マガモ軍団が姿を消している。どうやら一足先に北へ向かったと思われる。
4月上旬が過ぎればコガモたちの姿はあと半年見ることはない。

浄める力

遠山の神さび春の雪まとひ

今朝はよく晴れ、遠くの山までくっきりと見えた。

桜井の彼方に見える円錐型をした山が、おとといの雪だろうか麓まで真っ白だ。
たしかあれは高見山だと思うが、雪をかむった姿は普段よりは大きく神々しい山容に思える。

三重に通じる伊勢街道もあのあたりを通るのだろうか。

変わらぬ姿

長旅の移植乗り越え梅開く 

心配していた梅がようやく開花した。

昨年、仮住まいから新居へ二度も移植したおり極端に剪定してあるので相当弱っているはずだが、この長く寒かった冬を越してくれたようである。
あとはなんとか新芽を伸ばして体力回復できるように看てやらなければ。

これが終わると

僧形が行を終える日春装ひ

本当はお水取り、お松明を見物に行くつもりだった。

早く市内に着いたので例の大仏パンを買ったあと、いわゆる「ならまち」歩き。
おおよそ奈良町というのは、かつて興福寺と並んで栄えた元興寺の元境内にあたり、15世紀に火事で焼けて以来民衆が住みついた町である。広い、広い。



その広いエリアのところどころに往時の元興寺を偲ばせる建物などが点在するわけだが、往時高さ50メートルを超え興福寺の五重塔さえしのぐ塔があったとされる区画が、今では礎石だけを残してその周りを住宅に囲まれているのはいかにも肩身がせまそうである。
塔跡の大きな桜もまだ蕾が固く、ようやく顔を出した土筆だけがわびしい気持ちを和ませてくれた。

そろそろコーヒーでも飲んで一休みしようかという矢先雨が降ってきて寒くなるわで、お松明が始まるまであと3時間の過ごしようがなく日をあらためて出直しとなった。

今日はいわゆるフォト俳句風に仕上げてみた。
「つかず離れず」、難しいものである。