木守柿

柿もぐや日の目を見ざる枝のぬれ

気がついたら鳥に残す分まで穫ってしまっている。

今年は収穫を前にイラガという虫の襲来でがあったので、おそるおそる脚立から手を伸ばしながらの収穫だったので鳥さんの分までは気が回らなかったのである。
ともあれ20個以上はあったろうか、大きな袋にずっしりと重い。
店で売ってるのとはちがって種は多いし大きい。それでもこれから10日間ほどのデザートは柿となる。
そうそう木守柿となるものもなくて、碧空にまだ青い葉を残した枝が伸びているだけである。

ゆるくなる

手の届く位置に柿あるホームかな

平群谷は柿の実が夕日を受けてまぶしい。

我が家の柿はとっくに終わったが、里の柿はいまが盛りらしい。
手を伸ばしたら近鉄のホームから簡単に届きそうなくらい、そこに昔からあるのはまるで当たり前のようでいたずらする人もいない。
点在する柿はすっかり里に溶け込んでいる。
昨日は投句をすっかり忘れていたようで、今日は昨日と今日の分を投稿しなくてはいけない。
だんだん頭がゆるくなってきたのかも。

八年

売りものにくらべたくまし柿の種

まったくの自家製でろくな手入れもしてない。

そんな柿だから、たいして大きくはならないが身のほどをはるかに越えるくらい立派な種が出てきた。
お菓子の柿の種だってこれほど厚いのはないだろうと思えるほど大きい。
見るからに養分を含んで、これほど立派な種なら実生で芽がでるのは間違いないだろうが、柿は八年とか。生きてる保証もないし、鉢に育てるのも大変そうで、家人との話だけで終わった。

木守柿

柿をもぐことのつひでに青きまで

意外に甘かった。

ぼつぼつと落ちはじめたし、数えるほどの数しかないので早めにもぐことにした。
ただ一個はもう鳥に食べられていたので、さらにもう一個鳥たちのために残して。いわゆる木守柿になるのだ。
何も手を加えない富有柿だから種はしっかりとある。それを放り出しながら柿を食うのである。

リベンジ

生り年といふに呆けたる柿一本

急に葉が落ちだした。

見れば梅の葉もそうだ。
急にどうしたのだろうか。
今日は駐車場のしつこい雑草を始末したのだが、夏はあれほど頑固だったのに今はおとなしく鎌を受け入れてくれる。まだ九月だというのにまるで晩秋のような気さえしてくるのだ。
それにしても、今年は生り年のはずなのに庭の柿がまるで実をつけなかった。もっともろくな手入れをしてないのだから不思議ではないのだが、それにしても葉の落ちようといい、この夏の暑さにすっかりやられてしまったのだろうか。
先だって蒔いた大根はちゃんと芽をだしたのだが、人参は失敗したようでもう一度チャレンジした。今度はどうだろうか。

過熟

柿の実の知らずおほかた落ちにけり

いつの間にか柿が熟してしまってみな落ちてしまった。

暑さにやられて葉が相当傷んでいたのは知っていたので、数も少ないことだし、全然期待しなかったこともある。
実と言えば、多くが落ちているうえ、木に残ったものでもおおかたは成熟しすぎで、こうなるともう鳥にやるしかない状態である。

七回忌

仏壇にもいで減らざる庭の柿
菩提寺の供物に二個の庭の柿

生り年なんだろう。

隔年結果とならないよう前年かなり剪定したはずだが、枝という枝に鈴生り状態である。
ただ、ついこの前まで猛暑でいたときには実がまだ青く、収穫できるのはまだ先だろうと踏んでいたら、ここ二三日で急に成熟がすすんでかなりの数が熟柿状態となってしまった。
放置していたらみんな熟柿になってしまいそうなので、今日はずっしりと重くなるくらい捥いだが、とても食べきれない量なので近所にもお裾分け。
毎年、熟柿は鳥さんたちへのプレゼントになるのだが、今年はまだ鵯もやってこず、かれらが来るころにはもうみんな落ちてしまうのではないかと心配になる。
今月26日は子規が例の句を詠んだ日といわれ、当地では「柿の日」として無料で振る舞われる日だ。そういう意味でも今年は意外に成熟のペースが早いという、不思議な年である。

明日は、母の七回忌。
菩提寺の十一面観音さまへは、庭の柿もそなへようと思っている。