へっぴり腰

脚立にも届かぬ柿の天にあり

毎年生るにまかせる木がある。

いつもなら柿花火を呈してそのまま鳥の餌になるのだが、今年はめずらしく地元の仲間だろうか何人かで柿を落としていた。
斜面にたかくそびえる木に、植木職人などが使う立派な三本脚の脚立にのぼるのだが、馴れてないせいかすこぶる腰つきが危なかしいへっぴり腰である。斜面に手を入れてない柿はすこぶる高木に育っているので、上段に上がっても高鋏でも簡単には届かず難儀しているようである。
それでも帰途通ってみると見事に下半分の実がすっかりなくなっている。相当の量を持ち帰った思われるが、あれは甘柿なのか渋柿なのか。後者だとするとそのあとどうするのか、いささか気になるところである。

裏年

植木屋の柿の枝葉に目もくれず

どこの家も柿の木が色づいてきた。

今年は太り始める季節に暑くて雨も少なかったせいか、出来はもう一つという感じか。
店先に並ぶのはそこそこいいようであるが。
やはり、きちんとした技術がないとあのような立派なものにはならないということか。
わが家のは今年は裏年であるようだが。

触感、食感

ぬめりある柿の甘さを諾へり

どちらかといえば堅い方が好き。

柔らかいのはまず甘いが、ずるずる滑るような触感、食感が苦手である。ことに皮を剥くときつるりと今にも滑り落としそうになったりして、その弾みでナイフで傷つくような気がしてならない。
すでに柿は出回っているがシーズンの初めでも堅いとはかぎらないようである。

共同作業

爺鋏婆は籠もて柿を取る

通るたび見とれてしまう柿の木がある。

この家の生り年、裏年というのは次元がちがうのである。
今年の驚異的な生りようから、去年は裏年であったことが分かるが、それさえも一般家庭の生り年を大幅に上回るできだったのである。
今年も老夫婦が共同して柿を収穫していたが、一枝に十個は軽い成りなのである。二人で毎日十個ずつ食べても年内にはとうてい終わらないほどの圧倒的な数である。洗濯物を入れるような籠に収穫していたが、あれではいくつあっても足りないレベルなのである。
おそらく子供や孫、知人などにもお裾分けされると思われるが、それでも余ってしまうに違いない。
いったいどう剪定すればこんなに生るのだろうか。いつも枝振りを観察するのだがよくは分からない。
分かっているのは、収穫しやすいように木を高くしないということ。元気な徒長枝でもせいぜい高鋏が届く範囲にとどめるように仕上げてある。それは高齢の主人をおもんぱかってのことであろう。
通りから眺められる庭木を見てもプロの植木屋が手がけているのは一目瞭然なので、この一本のコンパクトでいて充実した枝振りの木も職人の技である。
我が家の柿の木も去年から整形の途上であるので、参考になればと眺めるのだが勘所がつかめないのがもどかしい。プロの技の所以たるところであろうか。

柿の葉寿司

柿の木の虫も湧かざる裏の年

去年思い切って強剪定した柿の木。

太くて立派な枝が空高く伸びているが、蕾のついた結果枝もいさぎよく切ったため実がほとんどついてない。
そのせいか、虫も寄りつかず、おまけに葉っぱはそのまま柿の葉寿司に使えそうな健康そうなものばかり。
さて今度はどの枝を残そうか。

回転

柿を剥くなまくらナイフつかひもて

切れ味が悪いとこうまで手こずるものか。

柿を切るか手を切るか。
リンゴもそうだが皮を剥くというのはくるくる回転するリズムが大切で、これが欠けると丸くは剥けないものである。またリンゴとちがうのは、一皮剥いた柿というのはぬるぬると滑りやすくスムーズに回転するのに一苦労する。
何とか剥き終えたがいびつな形となると味の方までも自信なくなるのである。

夫唱婦随

をみな指す柿へ伸びゆく高鋏

高齢化すすむ住宅街。

経過年数もかなりと思われる住宅に大きな柿の木が育っている。
ご高齢となってもう採られないのかなと毎日見ていたが、今日八十路に届くかというご夫婦が柿採りをされている。
ご主人が物置の上に乗り、奥さんの采配の枝の実を高鋏を使ってとってゆく。
数は多くないが一つ一つが立派な実でお二人で楽しむには十分なほどのようである。
ご夫婦揃って腰を伸ばしてはまた屈み、健康でおられる。すばらしき老いのありようを見せてもらって心ぬくもる一日である。