標高800メートル

百選の水にさめたる西瓜かな

天川村洞川は大峯登山口として修行者宿で知られるが、近くには日本百選の名水「ごろごろ水」がある。

鍾乳洞から流れ出てくる水が鳴る音から名づけられたらしく、大峯山系にしみこんだ雨が地中に湧きだして水量は豊富だ。
その水汲みを兼ねて日帰り温泉を浴びてきた。
洞川は胃腸にいいとされる陀羅尼助の発祥地である。行者宿が並ぶ通りに、修行者が買い求めたりお土産用としていくつもの店が今も営業中。そんな通りに写真のように、豊富な山の水をかけ流して西瓜を冷やす光景も見られた。

帰途、天河神社があると聞いて立ち寄ってみたところ、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする大峯奥社ともゆかりある神社だった。市杵島姫命は弁財天ともされ、芸能の神さまでもあり、拝殿に向かって立派な能舞台があってその間を吹きぬく風が涼しくて心地いいこと。

標高800メートルから一気に下った盆地の気温は36度。まだまだ奈良は暑い。

山国の盆踊り

山国の市史に記録の踊唄
中入れに老幼寝につく盆踊
中入れに輪の小さくなり盆踊
目配せに輪から抜け出し盆踊

深夜12時頃に中入れがある。

青年団が接待役で、長老などにお握りを作ったり、酒を注いだり。また、初盆の家々を踊り回る。
これが終わると、子供の時間は終わりで、夜明け近くまで山国の踊り唄が山間にこだまする。
この踊り唄は集落に昔から唄われてきたもので、何人かの音頭取りが交代しながら次々と続いてゆく。どんな内容だったか全く思い出せないので、熊野在住の方にお聞きしたら市史に記録されているもののコピーを送ってくださった。
盆踊りを行うには準備にも多くの人手も必要だし、その担い手も減ったとあっては盆踊りの継続も難しくなっているのではないか。もしかすれば、踊り唄を継ぐ人たちも少なくなって、いつか市史に拾われた記録だけが記憶のよすがとなるのかもしれない。

今日は送り盆の日。
海のあるところは海へ、そうでないところは川へ、盆棚の供物を流す風習は廃れていないと思われる。

墓碑こそ教材

泰国デ戦死と彫られ終戦日
英霊の少年のまま終戦日
墓碑銘は生ける教材終戦日
墓碑銘の一行重き終戦日

墓参してきた。

家人の実家の寺には村の英霊の墓20基あり、同道した子に墓碑を読ませ、戦死した国が広くアジア各国に及んでいたことを教えるいい機会になった。北は「北支」、南は「泰国」とあった。なかには「本州中部方面」とあったが、これは戦病死か。享年19歳から31歳。小さな村から応召し、その多くが若い命を散らせたことになる。家人の父は教職に就いていたことから応召から免れ、かろうじて血を絶やさぬに済んだ。

精気を奪う

掃苔の客の跡なる花萎び

兄妹揃って参ることはまれである。

父母ともに故郷にいなくなると、離れて暮らしている兄弟は、いろいろ都合があって墓参の日取りを合わせられない。しぜんに、個別に参ることが慣わしになっている。
たいていは墓に近い妹夫婦が先に参ってくれているようで、いつもお参りするときにはきちんとお花を供えてくれてある。秋とは言え残暑は厳しく、水は湯のようにもなって花から精気を奪うのだろう。痛んだものを取り除き、新しい供花を足すわけだが、熱い墓石にかけた水はたちまち乾いて、つくづく石の中の仏は辛かろうとつい声をかけてしまう。

マーマレード

新涼のジャムの蓋開くぽんとあく
新涼のジャムの封切る使役かな
新しきジャムの蓋開け涼新た

まさに新涼だ。

久方ぶりにエアコンなしに熟睡できた。
また、新涼とは静かなものだとしみじみ思った。
昨日まであれほどうるさく鳴き立てていたクマゼミ軍団どもが、まさに鳴りをひそめているのだ。ほんとに不思議なことだと思っていたら、案の定朝9時を過ぎたあたりから合唱が始まった。ただ、これまでよりはいくらかおとなしいようである。
もしかしたら、蝉というのは気温というものにも敏感な生き物であるのかもしれない。

動物霊園に参りにいった。
たいした用意もしてないが、喜んで戻ってきてくれるだろうか。

種弾け

河原石積める垣内の鳳仙花
鳳仙花屋根に石載す杣暮らし
爪染むる叔母見たるなし鳳仙花

もうずいぶん減ったろう。

山国熊野の暮らしはかつて林業に支えられていた。集落の男たちは、山主に雇われて、昨日はあの山、今日はこの山へと入り、下草を刈ったり、枝を払ったり、切り出した木を運んだり、川では筏師が河口の集木場まで運ぶ。
どの家も、平屋の屋根に届くかと思える高さまで河原の丸石を積み上げて垣を築き、檜皮の屋根を丸石が抑えていた。
垣のうちには南天を植え、柿を植え、どの家も整理が行きとどき、つましいながらそれなりに身ぎれいに暮らしていた。

林業は今では外国材におされて見る影もなく、男たちは町へ出てしまったが、毎朝男たちがやたら大きな弁当箱を腰に巻いて出かけていった姿が今でも鮮明に思い出すことができる。河原石を載せた家がいくらか残っていたとしても、それは打ち棄てた家になってるかもしれない。

帰省ピーク

出稼ぎの衆にかはれる盆用意
髪切っておくこと忘れ盆祭

盆路の草刈り、草取りなど男手が足りないと女や老人がやるしかない。

山の奥ならば、集落の墓場まで高低差があったりして、なかなか重労働である。
初盆の家など、松明を盆路に並べるのはさすがに女手ではつらいので、集落では相身互いの共同作業となったりもする。

三世代、四世代同居の時代ならばこうした光景も見られたろうが、生きてゆくために働き盛り世代が都会に出てしまってる現代では、盆のしきたりや行事というのは今でも維持されているのだろうか。
今年も盆帰休の渋滞がすごいらしい。事故なきを祈る。