起承転結

手花火の爆ぜて燭の火消えにけり
頑是なき子に手花火を持たせみる
手花火の手に姉の手の添へられて

いつの頃からだろうか。

線香花火がちっとも面白くなくなった。
というのも、燃焼している時間が昔に比べて極端に短くなっていること。と同時に変化にも乏しくなっていること。
線香花火は、燃焼過程でいろいろな変化があってこそ楽しい。初めに「牡丹」といわれる玉を形成しワクワク感が高まる過程、そして「松葉」と激しく火花を散らしてハラハラする過程、それがおさまると「柳」といって長く糸を引いたような過程を経て、最後は「散り菊」でパッパッと火花を散らしながら火の玉になって名残を惜しむ時間をはさみ、玉が落ちてその余韻に浸る。
こうした「起承転結」に富んだ花火の変化があるからこそ、一本一本が点火されていくたびその時間自体がいとしく、もっともっと続いてほしい、まだ終わらないでほしいという気持ちでせつなくなるのだ。
何とも味気なくなった理由は、いつのまにか外国製の安いのにとって変わられたからだという。
手作りで手間がかかる国産花火は価格で太刀打ちできなくなって、国産の線香花火は数パーセントしかないと聞く。
国産のものを手に入れようにも、そこらのスーパーやホームセンターなどでは見つからず、それこそネットで検索しないと手に入らない。
たとえ一本が百円、数百円しようが、本物の線香花火をもう一度かざしてみたいものだ。

合唱曲「千羽鶴」

虹色の鶴は希望を長崎忌

清々しい歌声と、その歌詞に耳を傾けた。

今日の平和記念式典で、乙女らによって歌われた被爆50周年を記念して作られた「千羽鶴」という合唱曲だ。
見たことがあるような制服だったが、これは娘の通った学校の姉妹校の生徒と知って合点がいった。
長崎市では、この日11時2分になると、防災無線放送でこの曲が流れるという。
かれこれ20年以上歌いつがれてきたことになるが、世界平和を願うこの歌の理想からは、きな臭い中東といい、極東といい、現状がますます遠くなっているような気さえする。

町の防災無線は今日もこの時刻乾いた鐘の音を流し黙祷を呼びかけていたが、夕には同じスピーカーから迷子になったご老体の捜索依頼が流れてきた。すぐに「無事保護された」とアナウンスがあって、無事解決したようだった。

長寿台風

飛び込みし虫を殺さず颱風来

何かの拍子に蜘蛛が入ってきたようである。

いつもなら外へ退散いただくべく捕まえるのだが、こちらも颱風を避けて窓という窓を全部閉じているので、そのままにしておいた。朝起きてみると、どこにも見あたらないので、一夜限りの避難所であったようだ。
この5号というのは、今夕のニュースではまだ新潟沖で、温低にもならず台風のままとはしぶといやつだ。

立秋湿度80%

秋立つや防災アプリ入れてみる
託児所に雲行き怪し今朝の秋

昼過ぎに保育園の子を連れてお母さんが帰ってきた。

共稼ぎのお母さんはどうやら早退らしい。
いつもなら元気な子供たちの声が聞こえるところ、雨戸を閉めているせいか、全く聞こえてこない。

わが家でも、あらかじめトマトなどのプランター類は風避けの対策をしているので倒れはしないようだが、このたびの台風五号の目がは珍しく盆地を縦断しているようで雨風ともに強いが、山に守られているせいか怖さは全くない。
ただ、もともと湿地帯であった盆地中央は、大和川支流が複数集まってくるので洪水が心配されるが、台風の目が奈良市へ抜けたあたりで氾濫のニュースはないので、今回は無事にやり過ごせるのではないだろうか。
このあと間もなくskyblueさんの東海地方に近づいてゆく。

万能包丁

桃割りし鈍き刃の蜜光る
鈍き刃を突き立て桃の離れけり

何年も使っている万能包丁がくたびれている。

野菜でも肉でも何でもござれと家人は気にせず使っているが、ときどき研ぐにせよ最初の切れ味はとうに失われている。よくも器用に使うものだと感心するくらいだが、一向に気にしない質のようである。
今日もまた、信州から届いた立派な桃の冷えたのを、刃先を器用に種に沿いながら割っていたが、肉の断面はと言うといくぶん崩れているように見えて、なんだか折角の桃がかわいそうに思えた。

一丁目寂し

本邦の南晴れたる帰燕かな
もう一回軒の巣かすめ帰燕かな
電線に見馴れぬ数の帰燕かな
若鳥の親より太き帰燕かな
この町で分隊組める帰燕かな
燕去つて寂しくなりし一丁目

「電線に鳥がとまってるよ」

そういう声に起こされて、南西の空を見たら雲ひとつない秋のような青空だ。
まるで次の句を思い起こされる朝だ。

一天の翳りなきとき帰燕かな 桂信子

最初の句はこれに類すると言われそうだが、あえて。

さて、その電線の鳥だが、これは幾分大きめで寝ぼけ眼には何の鳥だか判別がつかない。
そこで、外へ出ると、お向かいの燕の夫婦が巣作り、子育てのときにさんざんつかまっていた電線に、20羽ほどの燕が止まってはまた周りを旋回している。そして、これがいうところの帰燕らしいと悟った。初めて見る光景だ。
起きがけに大きく見えた鳥は若鳥らしいと悟った。
お向かいの巣の子作りは一回だけだったので一家族で6,7羽程度。ということは、この辺りに営巣して子育てを終えた四家族くらいが一分隊として今日発つと決めたらしい。
朝食を終わって外に出てみたら、電線にはもう燕の姿はなかった。ひとまず淀川にでも塒求めて向かったのかな。

後にも先にも

しらじらと深山泊まりの天の川
しろじろと砂子刷きたる銀河かな
銀漢に射られ二三歩後ずさる
まなうらに銀河の砂子持ち帰る
鼻先にひたと銀漢起ち上がる

昨夜風呂に入ってると花火の音がした。

7月最後の土曜日は恒例の町の七夕祭りで、いつものフィナーレを飾る花火だ。
朝から雨がちで、やはりこの時期星空を望むのは難しいようだ。
星空といえば、子供たちが小さい頃蓼科に近い山荘に泊まった時の夜、圧倒的な夜空の星に一同言葉をなくしたことがあった。
星屑が鼻先にまで迫ってきて、目眩がするくらいである。星屑というにはあまりの数で、星座すら見分けがつかない。もちろん、どれが天の川やらも暫くは判然としなかったが、どうやら空の真ん中をぼんやりと白く横切っているのがそうであるらしい。
以来、あれほどの星空は後にも先にも見たことがなく、天の川といえばあの凄味すら伴う像がまなうらに浮かんでくるのである。