清流の美声

きれぎれに瀬音混じりに初河鹿

狼像の前を台高山地を水源とする紀ノ川支流の高見川が流れている。

川としてはかなり上流に位置するのだがこのあたりは川幅も広くゆったりとした流れだ。しばらく散策してみると句材が限りないほどある。
著莪の花が乱れ咲いて沢から高見川になだれ込んでゆくかと思えば、沢水を引いた小流れの底にカワニナが点々とみられ蛍を予感するものがあったり、目の前の貯木場から崩れた材木が河原に散らかっていたり、橋の中ほどに立てばいかにもシーズン最初のような消え入るような、しかしはっきりと河鹿と分かる玉を転がすような美しい鳴き声が聞こえてきたり。さらに、河畔の木の新緑は透けて見えるほどまぶしく初々しい。

川の名前からして目の前にある大きな山はあの高見山ではないかと尋ねる人もいて、新緑の秘境を大いに楽しみながらの吟行第一歩である。ここで30分ほど時間を過ごしたあと、次に句会場の天好園に向かう道は高見山を借景に夏桜が望めるというこの季節最高のロケーションではないだろうか。

自然児のフォルム

初夏や狼像の四肢の爪

東吉野村というのは、明治期日本狼が最後に見られた村だそうです。

若い雄だったそうですが、英人に買い取られ大英博物館の標本として保管されているとか。この標本をサンプルにした狼像が同村小川地区の高見川沿いに建立されていて、近くには山茶花主宰三村純也の句碑がある。

狼は亡び木霊ハ存ふる(おおかみはほろびこだまはながらうる) 三村純也

揚句はその狼像を詠んだものであるが、鋭く太い爪をしっかり大地に踏ん張り咆吼する姿が非常に美しいシルエットをみせている像である。

協定

春愁やかたぶきをりぬ家の守

春愁や思ふにまかせぬ家普請

傾いた格子戸

通りからこの家の見える表部分は今にも崩れそうな具合である。

かろうじて倒壊を免れているのは、この表側のもたれるのを家の残りの部分が支えているからだろう。町が重要建造物群保存地区に指定されているため、歴史的な町並み維持のために各家は定められた建築基準に従わなければならない。ただ、後継者のいる家はともかく、そうでない場合は外観を維持するだけでも大変な負担であることは想像に難くない。

景観維持

潜戸のみ付替へてあり燕来る

茶褐色の枠の中に白木のコントラストが目を引く。

長い年月馴染んだ玄関格子戸の潜り戸部分だけが真新しいのだ。町全体が建造物群保存地域になっているので、重要建造物に指定されてない民家であっても古い伝統を守るため、修理を加えながら街づくりに協力しているのだろう。

茶室跡で

椿守一輪活けて去りにけり

集落西の端に当時の様子をとどめる環濠が残されている。

内濠、中濠、外濠という3重に構成された堅固な要塞都市だったことが分かるのだが、訪れたとき落ち椿が壕一面に浮いており、蛙は鳴くは、羽化したばかりの水馬はいるはで、句材には事欠かない風情であった。
惣年寄だった今西家の茶室があったあたりは、壕に隣接した公園として提供され、杏、榎の初々しい芽が吹いたばかり。折良く公園管理を委嘱されている人がやって来られて、やおら公衆洗面所のペットボトルに、今を盛りに咲いているのを剪ってきた椿一輪を挿したとおもったらさっさと立ち去って行かれた。一連の動作はまるで毎日の日課でもあるように、挙措にまったくよどみがなく、何事もないがごとく済むのであった。

そんぼの柳

太子道柳芽吹ける蘇武井かな

環濠の東側飛鳥川沿いに、かつて集落の飲み水をまかなった井戸があった。

「蘇武井」(そぶい)と呼ばれる井戸は水清らかで日照りが続いても涸れることがなかったという。
聖徳太子が飛鳥と斑鳩を往復する道筋にあたっていたのだろうか、太子が駒をとめ給水されたとも伝わる古い井戸である。そばの石碑には「今井ソンボの朝水汲みは桶がもるやら涙やら」と歌の一節が刻まれており、毎朝水汲みをする苦労を歌っている。
一体は最近きれいに整備されて、井戸の傍らにあらたに柳が植栽されており、枝まで緑色した若い柳の芽がひときわ柔らかそうだった。井戸に柳というのは定番で、おそらくその昔も柳の枝が揺れる姿がみられたことだろう。

ちなみに、ここは自宅から飛鳥川伝いに飛鳥へ出る自転車道の道筋にあたっており、このあたりから川が東側におおきくカーブしながら飛鳥の里にのぼってゆく。