時ならぬ

雨戸して妻に届かぬ冬花火

ときならぬ花火の音がする。

窓を閉めると外界の音が聞こえにくい構造だから、微かではあるがあれは間違いなく花火である。それも、何キロも離れていない距離の。そう言っても最近耳がちょっと遠くなった妻には聞こえないらしい。
確かめるべく外へ出てみれば、間違いなく駅の南、つまり我が家とは反対側の空に上がっている。そこは違う町だから何の花火かは分からないが、何かの記念の花火なんだろうか。
聖徳太子に縁が深い土地で、太子の建立という達磨寺もある町だから、それに関係しているのかもしれないなと思いながら、夜になって風も強くなって着たから早々に家の中にとって返した。

小宇宙

こめつきの糞のまさをの大根畑

間引きをかねて大根を引いてみた。

大きくはないが着実に、そして健康に育っているようで葉が青々としている。
引こうとして気がつくと、新しい葉がつぎつぎ生まれてくる中心近く、葉の色よりはるかに濃い緑の、これまた健康的な虫の糞がのっている。柔らかで健康な大根の葉だけをたんまり食べて、葉よりも濃い翠である。
これら小さな動物たちの糞も糧にして、畑の微生物が育ち、それが土壌を豊かにする小宇宙が形成されて、それがまた大根を太らせるのだ。
水道で洗い流して葉っぱごといただいた大根葉の浅漬けのなんとうまいこと。

小夏

冬ぬくき宵の明星模糊として

馬鹿陽気の一日であった。

いつもより一枚脱いでもまだ暑い。
厚着になれてしまったのでさすがにTシャツだけとはならなかったが、実際には昼間の気温は27度あったそうで車には久しぶりの冷房が入った。
月に寄り添う宵の明星も春の宵のおぼろの風情。
小春どころか気温だけでいえばこれはもう小夏と言っていい。

深呼吸

花柊満ちてふたりの齢重ね

清楚で上品な香がただよふ。

今年もまた花柊の季節がやってきた。
花は咲けども最初の一週間ほどは香りと呼べるものは届かなかったが、この二三日ほどよい香りがあたりに漂う。
春の訪れは沈丁花、秋たけなはの金木犀と並び、初冬の柊の香りが三大香ではなかろうか。
とりわけて上品でいて嫌みのない香りといえば柊であろう。沈丁花の蒸せるような香でもなく、まちかどにあまねく広げる金木犀でもなく、柊はあくまでほんのりなのである。
少し離れれば香りがあることさえ気づかない奥ゆかしさが好ましい。しかも花期が長いこともありがたく、玄関に出るたびに深呼吸してしまうのである。

固有の時間

大根のとなりの畑と比べ見る

生育が芳しくない。

久しぶりに大根を蒔いたのが、なかなか思った通りの大きさに育ってないようだ。
ただ葉は青々しているし、虫に食われてもそれ以上に葉が茂っているので気長に待つことにしよう。
そう、それが命に向かい合うことの大切な点である。命はそれぞれ固有の時間をもっているのであるから。

気遣い

回覧の郵便受けに冬の朝

こころなしか、宅配のドライバーさんの腰が引けている。

手渡しの瞬間も必要最低限にとどめて一歩引いておられる。
こういうご時世だから、いろいろ気をつけていただいているのであろう。いわゆるエッセンシャルワーカーとして、自身の身を守りながらの顧客サービスの維持には想像以上のご苦労があるはず。
回覧板もいちいち家人を呼び出して渡すというのはリスクがあるので、そっと郵便受けに落として行かれるのである。

鉢増

小春てふ明日を約する無風かな

庭の紅葉が最高潮に達した。

小春の明るい光に透けて庭の板屋楓が燃えるように紅い。息をのむ美しさで、我が家に来てから初めての紅葉を見せてくれている。
これは庭に下ろしていたものを調子が悪いので、一昨年の冬に鉢に植え替えたものだ。
そうしたら鉢の大きさに比べて背が高くなりすぎて、強い風が吹くと何度も倒れては起こすという手を焼かせる子だったので、落葉したら鉢増する予定である。ひとまわり大きい鉢を買ってきて用土も揃えてある。今月末頃の衣装替えが楽しみである。