円錐形を保つ

銀杏散る荒ぶる神の庭にかな
銀杏散り山寺いよよ寂びゆける
黄落のゼブラゾーンの轍かな

初瀬の素戔嗚尊神社の銀杏が遠くからでも見える。

与喜山の麓にある社の境内を埋めるように落ち葉が敷く。
大木であり、かつ大枝を四方に延ばしているので、太い幹を中心に同心円を描くように散るのである。通常、銀杏の大木ともなると途中で折れたりして樹形を保つものは少ないのだが、ここの銀杏は円錐形の姿が見事である。
この銀杏の黄色は長谷寺の舞台からもはっきりとよく見えるので、お詣りした後はどうしても足を向けたくなる。訪れる人もまばらで大銀杏の黄落を独り占めできるのも、またぜいたくなものである。
陰暦10月、神さまが留守とあって、ひとり大銀杏が留守を守っているかのようだ。

雨を教える

朴枯葉ところによりの雨は急

しぐれの季節となった。

天気予報には「ところにより雨」と、はなはだあいまいな言葉があって一般生活には役立たない気もするのだが、気象庁によれば「予報発表区域の半分より狭い範囲で雨が降ることを表す」ということだそうだ。
少なくとも、雨の確率は1/2より低いことは分かるが、それなら「降水確率」で表すのとどう違うのか。あんまり深く考えてもどうせ予想の話だから、あとは自分の経験から判断して行動したほうが納得いくというものだろう。
さいわいにして、テレビの天気情報、ネットで民間予報会社などの情報が簡単に得られるので、それで結構あたることが多い。

朴のあの固い枯葉は、すれる音、風に騒ぐ音、雨に当たる音、踏まれる音、いずれも大きな音が出る。降り始めなどの乾いた音を聞きつけると、いち早く雨が降ってきたことを教えてくれる。

送迎バス停の気配

冬めくやママにすがりてバスを待つ

ママの手にすがって幼稚園バスを待つ。

隣の空き地前が幼稚園バスの停留所。8時前になると賑やかな声でそれと分かるのだが、最近はそれと分からない日がある。
いつもなら子供どうしいつも活発に遊んでいるのに、最近は言葉少なにじっとしていることが増えた。
お迎えの先生の挨拶も、どこかこの季節らしきもの。
吐く息が白くなるにはまだ早いが、子供たちの動きをみているだけで季節の変化が感じ取れるのだ。

急ピッチ

操舵手の見えて起重機冬に入る

校舎の姿が見えてきた。

クレーンのアームが回転しては傾き、資材を上階に運んでいる。
その動きは小さいが、確実に動いていることが分かる。
老朽化した校舎を建て替える工事だが、その期間生徒たちは不便な間借り生活を強いられている。
この分でいくと、竣工は来年間違いなしだろう。
地震もエアコンの心配もなく勉強に専念できる環境ができるまで、もうしばらくの辛抱だ。

冬隣り

くちなしの白の真澄の狂ひ咲

秋の色が満ちた公園の生け垣に純白の花をつけている。

こくちなしの花だ。
葉は青々としたままだからよけいにその白さが際だつ。
花も狂い咲けば、ただ咲くことだけに専念するのだろうか、よこしまな色など見せずその純潔をさらに極めようとしているようだ。
今は雑木の紅葉がきれいだ。とりわけて、欅の黄葉が素晴らしかった。少しの風でもさらさら散ってをり、やがて分厚い落葉の絨毯になるのが目に見えるようだ。
平地のモミジは始まったばかりという感じで、あと一、二週間で燃えるように紅くなるものと思える。

今日は朝方は曇っていたが、午後からは晴れて暖かい小春日和となった。

出汁とネタと

西のおでん戸惑ふ東国戎かな

最近はおでんというのはコンビニで買うものらしい。

スーパーでもおでんのネタセットが売られているが、なにより手軽さが受けて若い人に人気なのであろう。
本当は鍋で炊いて、いろいろなネタの味がしみ出た、その出汁ごといただく方がうまいと思うのだが。
そのおでんにも当然地域色があって、ところ違えば具もまた違う。
長年関東で過ごした人間にとって、ちょっと見馴れないネタがおでん鍋に詰まってるのを見ると、手を出すにも少しばかり勇気がいる。

今夜は急に冷えてきた。これから数日間さらに冷え込む日が続くという。
おでん恋しいシーズンがやってきた。

まほろばの冬姿

寒木瓜の粒の源平はつかにも

梅も咲いたが、木瓜もひっそりと咲き始めたようだ。

丈が低く、葉もまだ充実してなくて木そのものは貧弱に見えるせいか、足を停める人はまれのようだ。
ただ、屈んで目をこらせば、開き始めた花も小粒だが、ちゃんと赤白に咲き分けているようである。
大きな粒の爛漫の春はまだ遠いが、ひっそりと足下に並んでいる木瓜も今の季節には貴重なものである。
起ち上がって周りを見ると、大峯の雪嶺がはっとするほど国原の景色を引き締めている。これもまた、まほろばの姿である。