溜息

下千本咲いて記憶の花行脚

下千本が満開とのニュース。

当地へ越して次の年吉野の上千本から中千本へと旅した記憶が甦ってきた。
圧巻は満開の中千本の坂道。長時間歩いた疲れを吹っ飛ばしてくれる桜、桜のトンネルの逍遥。
もう一度行きたいが家人の体調が思わしくなく見送らざるを得ない。
コロナ禍でピーク時30万人の人出も昨年は三分の一ほどになっているからチャンスと言えばチャンスなのだが。
報道の画面を見ては当時の思い出にひたっては溜息がもれる。

目論見

芝桜ふれて出勤したりけり

季節がひと月早いような気がする。

かつては連休の頃盛りを迎えていたと思うのだが、今年は今日あたりがピークとなっている。
散歩の途中とみられる老夫婦が足を止め、何やら言葉を交わしてはまた歩き始める。自転車で下る途中にちらと振り返る人もいたりして、年々人の注目を浴びるようになったものだ。
もうひとつ気づいたのだが、もともと三種類の苗を植えたのが、今年あたりはとうとうその内の一つだけとなってしまった。どうやら他の色のものを駆逐してしまったらしい。ということはこれは環境に合う強いものらしいので、花が終わったらさらに広くカバーするように移植もしてみようと思う。
天気がよくなってやることが山のようにあるので、果たして目論見通りいけばいいのだが。

桜の楽しみ方

桜木を見て花片はみてをらず

足もとから仰いでも個々の花は見ていない。

一週間前は裸木同然だったのが、数日で満開ともなると圧倒される思いに支配される。
これが吉野などならば圧巻の山を前にただ陶然とするばかり。
桜の絵を描けと言われればどんなに細かい描写でも枝振りサイズとなろう。花片単体というのはどんなものかと問われても即答はできないのである。
糸桜、河津桜、いろいろあるが、全体として眺める。それが桜の楽しみ方でもあろう。

菜の花畑

白と黄の蝶の縺れる昼下がり

珍しいものを見た。

白と黄の蝶々がもつれるようにとんできては菜の花に寄ったり。
はじめはまさかのカップルだと驚いたが、どうやらそうではなくてやがてまた別々の方向へ消えていった。
白菜畑はいまは菜の花盛り。摘んでも摘んでも次から次へと伸びてくる。毎日のように天麩羅やお浸しでいただいているが甘さがのってうまいものである。
菜花は白菜が一番うまいとは聞いていたが納得である。

ネクストステージ

学童保育園まづは入園入学児

先月のことである。

近所の児に入学式はいつ?と聞いたら31日だと答える。
え?もう?
はにかみ屋さんだからそれ以上問答するのはやめたがどうやら入園式のことらしいと気づいた。
お兄ちゃんもそうだが、保育園卒園から入学と同時に学童預かりの学級に通っている。弟も同じなんだろう。
束の間の春休みを楽しんだあと彼の新しいステージが始まった。

三室山

雨に子をやれば桜の散りそむる

花冷えの雨だった。

桜を見に帰っていた娘が東京へ帰って行った。
三室山の遠桜も雨にけぶって今日は見えない。
家の裏手から山の全貌がよく見えるのを知ってからというもの、あらためて三室山の春と秋の変化が楽しみでならない。今日はその三室山の桜を見てから帰るのだという。三室山とそれを巻くように流れる竜田川両岸の桜並木は一見の価値はある。交通の便が悪いのが玉の疵だが、いい思い出になるだろう。

カップル

相伴の犬も老いたり春の雲

老犬のテンポに合わせて歩く。

それがまた絵になるカップルと言っていいか。
ふん処理のグッズもちゃんと携行し、老人の足もとも不確かだが、このようにして十幾年ともに生きてきたのであろう。
いつまでも後ろ姿を見ていたいような心温かいものをいただいた。