持ちつ持たれつ

ねこじゃらし枯れてこぼれて群雀

あのブラシの尾も葉っぱもみんな枯れて真っ茶色だ。

ひとの気配がなくなると、さっと電線から雀たちが降りてきては、なにやら猫じゃらしの根元をしきりに啄んでいる。
どうやら、ブラシのような穂から種が溢れているらしい。それをしきりに啄むのである。
最近はこのような群雀を見かけることが少なく、珍しい光景を見たものだと思う。宅地は開発され野原が少なくなるいっぽうで、道路などは舗装されさらに雑草の生きる空間も減るなかで、雀たちにとって生きづらい世になったものだが、このようにして冬を食いつないでいたのだなと思うと哀れをもよおさざるを得ない。
猫じゃらしの夏は猫の遊び相手となり、冬は雀を養う。雑草といえども、生きとし生けるものにとって世の中は持ちつ持たれつでできているのだ。

思い出せない

畝傍山まどかにいます冬の靄

今日の盆地は終日冬霞がかかっていた。

耳成山はもともとどこから見ても円い形をしているのですぐに見分けがつくのだが、今日天皇皇后両陛下が参拝された神武天皇陵のおかれる畝傍山は見る角度によっては鋭い稜線が立っていたり、台形のような形にも見えたりとかして、遠くからだと確信をもって言い当てることもできないことがある。
まして、今日のように青垣のすべての山襞から雲がわきたつて、低い雲が盆地全体を覆うような重苦しい空気に包まれてみると、北東方面から見た畝傍がまるで耳成と同じように円くみえてしまって、いったいどちらがどちらださえも判然としなくなる。

終日の靄は夕方にも美しい景色を見せてくれた。
飛鳥からの帰りの西の空、薄靄の葛城山に夕日が沈みかける、どこかで見たことがあるような日本画の夕景であったが、誰のどんな絵だったかしきりに思い出そうとするのだが、固い頭にはそれ以上の追憶を許されないのであった。

堆肥作り

そこそこで済ます挨拶冬めける
三々五々ボランティア来る落葉掻

今日は風がないものの、重そうな雲が垂れ込めていよいよ冬めいてきたように思う。

行き交う人も挨拶もそこそこに足早に去って行く。
いつもの散歩コースは週末に町民マラソン大会のコースとなっていて、有志のかたがたが落ち葉を掃くのに忙しい。
掃いても掃いても風で飛ばされるんだよとぼやいておられたので、車に積んであった大きな袋にいっぱいいただくことにした。もちろん、落ち葉の堆肥作りのためである。櫟、楢、紅葉の落ち葉だから最高級のものができるはずである。
天気をみて庭に穴掘り牛糞などをまぶして土をかぶせておけば、再来年にはもう土と見分けがつかなくなるはずだ。

増幅

もてあます匂ひなりけり室の花

ランがいっせいに咲いた。

同じような環境で、同じ要領で栽培しているから花芽のできる時期もほぼ同じで、カトレアなどいろんな種類のランがほぼ同時に咲くわけだ。
もともとランというのは甘い香りを放つものだが、これらがミックスされると香りはさらに増幅されて強烈なものとなる。
栽培ケースのそばには長くいられないほど強い香なので、ちょっと困惑することもある。

出直し

大鷹の翼返して耀へり

大鷹がはばたく姿を見たことがない。

発見したときはたいがい風をとらまえて旋回しているのである。
これが冬日ともなると、ひるがえるほんの一瞬下から日が当たるようなことがあり、きらめくように光を返すのでそれはそれは神々しい姿となる。
これこそ金鴟と呼ぶものではないかと思えるのである。
今日の鷹の句は全没。力が入りすぎたときは思いがまさってかえって句姿を崩してしまったようだ。
これを戒めとしてまた出直しだ。
なお、句会に出ると思わぬ知識も得るもので、「青鷹」と書いて「もろがえり」と読む。万葉集にも読まれる大鷹の古名で、鷹狩りに最も適していたとされる。

10月の陽気

きのふにはなかりし暈の落葉かな

一日で一気に積もった。

昨日までは道の端に積もっていただけの落葉が、今日は道を隠すほど散り積もっている。
毎日が冬に向かってどんどん突き進んでいることを実感する。
今日の歩数1万ちょっと。
陽気がいいので気持ちよく伸ばせた。

雑木いろいろ

新しき落葉のはなつ匂ひやな
枝ぐるみ落葉を敷けるくぬぎかな

木の周りの広い範囲に落葉が積もっている。

なかには枝ごと落ちて、どれもまだ新しい落葉。誰も踏んだ跡がないところに踏み入れば、そこは「新しく」落ちた葉っぱたちの匂いがたちこめて、これもちょっとした森林浴だなあと思う。
欅の大木も広い範囲に落葉を散らしているが、葉の大きさ、厚さ、固さなどにおいて櫟のほうがまさっているのでボリューム感があって、いつの間にか落ち葉のふとんを踏むのを楽しんでいた。
今日あたりは楢の木の黄葉が目立ってきれいになってきたと思った。雑木にもいろいろあって、みな美しい。