7年前の夏

介護ベッドこころみ起こす夜の秋

終末期の母が家に来たのは7年前の8月だった。

自宅で最後を看取ると腹を決めて、緩和治療医を近所に探し、レンタルの介護ベッドも用意して、万端整えて迎えたのである。
しかし、エアコンも四六時中効かせたが、もともと昔から暑がりであった母は、しきりに暑い暑いを繰り返した。
これが今年のような炎暑だったらもっと大変だったのは間違いない。
そうこうするうちに秋に入り、目に見えて母の状態が悪くなり、あっというまに帰らぬ人となってしまった。
この二三日、夜だけはいくぶん風が出たりして多少はしのぎやすくはなってきた。
暦のうえでは今年も夏の終わりとなってきたが今月も引き続き暑い日が続くという。あの年の夏が暑かったのどうか、今となってはさっぱり思い出せない。

惑星のゆらぎ

風死んで近き火星のゆらぎけり

遠花火かなと思って外へ出た。

爆音のような響きが大和川方面から伝わってくる。もしや隣接の柏原の花火かと思ったが、平日に花火大会などはないはずで、オートバイかなにかの爆音だったのかもしれない。
踵をかえそうとしたとき、南の空にひときわ赤く明るい星が見える。
これが、何年ぶりかで地球にもっとも接近してきた火星だとはすぐに分かった。

あいかわらず風がない夜だが、ときどき火星の光りが揺らいでいる。惑星のはずだから瞬くことはないが、昼間に温められた空気が夜になっても動いているのだろう。

五感

端居してテレビの予報聞くとなく
端居して聴覚だけの五体かな

涼しい場所を選んでは暑さ除け。

とくに何すると言うこともない時間が流れてゆく。
目は庭木などを眺めてはいるが、耳にはいろんなものが飛び込んでくる。
道行く子供たちの声、蝉の声、そう言えば最近鶯の声が聞こえなくなったな、とか。
朝もまた暑い日なんだろうかと考えながら、隣室につけっぱなしにしているテレビの予報に自然と耳をすませている。
このとき、五感は聴覚だけが働いている。

烏の行水

髪洗ふ床屋の仕上げ気に入らず

下手すると日に何度も髪を洗うこともある。

朝の野良でひと汗、昼寝でも汗、ちょっと運動しても汗。
簡単なシャンプーで済ませるものもふくむが、着ているものをすべて脱いで全身を洗い流さねばとても過ごせないような日が今年はやけに多い。
風呂にしたって、冬ならば15分も浸かっている風呂も、さすがに今は烏の行水程度。温度も体温に近いレベルまで落としてちょうどいい。体を温めるというより、汗さえ流せればいいのだ。
使う石鹸も頑固に固形。
木の葉髪だが、洗う時間は昔と変わらない。風呂ひとつはいるにも、毎日きちんと守っているルーチンが狂うと何かヘマをしでかしては叱られてはいるが。

伊勢の神風

颱風の目とは闇夜に窓をたたくもの

夜中、まだ三時前頃だったか。

風雨が激しく窓を叩く音に目が覚めた。
寝床に入る頃には何の兆しもなかったのに、伊勢に上陸したものがあっというまに当地に達したのであろう。朝のニュースで頭の上を颱風が抜けていったことを知ったが、まさしく三時頃が台風の目が通過していたに違いない。
スマホの警報がけたたましく鳴って非常事態を知らせてくれるのはありがたいが、窓の音を聞きながらも眠りの底にふたたび落ちようとしているのを邪魔されてまた目が冴えてしまった。
伊勢の神風などどしゃれておれない、過去の常識を超える災害もあったようである。
ゆめゆめ、これからも予断はなるまい。

水神さま

水筒に摂社の清水受けにけり

奈良には水の神を祀った社が多い。

雨が少ない盆地にとって、山からしみ出す水は大変貴重なところから、それらの安定的な確保が欠かせなかったためであろう。
ちょっとした神社の隅にいってみると、水神さんが見つかることが多い。飲料にも適した水をいただくこともできるので、ちょろちょろと湧き出す水を辛抱強く待ちながら、水筒の水と入れ替えることもある。

葉陰に覗くもの

青柿の細枝撓む若木かな

人の背にも届かない柿が実をつけている。

見たところ、3、4歳の若木だが、隣の老木に負けない強さがある。
柿は八年というが、今ではホームセンターで売られている苗木でさえ実をつけていることがある。接ぎ木によるところが多いのであろう。
野菜では苗の成長を優先して、一番果は小さいうちに摘んだり、採取したりすることが普通だが、接ぎ木であればそのような配慮もしないで済むというものだ。
はたして、落ちることなく秋まで残るのはどれだけあろうか。