寒明けの雪

古歌の碑をたどる山路の雪解かな

今朝飛鳥村が薄化粧したというニュースに飛びついた。

甘樫丘に登れば飛鳥旧址全体が見えるかと、昼食ももどかしく真っ直ぐかけつけたが、稲渕など奥飛鳥を残してほとんどの雪は消えている。
雪の旧蹟を歩く興はすっかりさめたが、それでも飛鳥に来るとまず登ってみたくなるのが甘樫丘なのだ。
今日は南から北に向けて、南北に長い丘の尾根を歩くことにした。尾根の径は、万葉の植物園路と名づけられ、万葉古歌に詠まれた樹木が植えられて、一本一本立ち止まっては歌と木の名を確かめながら歩くのでちっとも退屈しない。
ただ西風がやたら強く、展望台に立つとせっかく登ってきて温まった体がすぐに冷えてきて長居はできそうもない。
三山をぐるっと見渡して、盆地をさっと眺めただけで帰路をとることにした。

だが、さすがに小鳥は多い。双眼鏡を持たずに来たので、目の前で確認できたのだけでも、ヤマガラ、ジョウビタキ、コゲラ、シジュウカラ、アオジ、モズの雌雄などなど。

雪解と言うほど積もったわけではないが、日の当たらない部分ところどころ夕べの雪が残っている。雪解水もしたたるわけではないが、久しぶりに雪を見ることができた。

梅は咲いても

案の定雪見る朝の春立てり

ますます寒さが募ってきた。

今朝など雪が激しく舞い、これも立春らしいといえばそうだが、ちょっといつもの年ではないような気がする。
というのも、前にも書いたが、今年は三寒四温がいっこうに始まらないのだ。
それどころか、この先一週間は低温が続くという。
梅,木瓜は暦通り咲き始めたが、天気だけは相変わらず気紛れなものらしい。

お大尽

粋筋を引き連れ二月礼者かな

これも死語に近い季語かもしれない。

意味は、仕事の関係などで正月に年始回りができなかったために、二月一日に年賀に回る人。また、その風習を言う。
正月興行で忙しかった役者、料理業界などに見られたという。
新暦となって、2月まで年賀の挨拶をしないということはないと思うので、俳人だけが遊べる世界ではないだろうか。
黒紋付のきれいどころを引き連れて、まるで成金のお大尽のような年賀である。目はもうきれいなお姉さんに釘付けである。

まほろばの冬姿

寒木瓜の粒の源平はつかにも

梅も咲いたが、木瓜もひっそりと咲き始めたようだ。

丈が低く、葉もまだ充実してなくて木そのものは貧弱に見えるせいか、足を停める人はまれのようだ。
ただ、屈んで目をこらせば、開き始めた花も小粒だが、ちゃんと赤白に咲き分けているようである。
大きな粒の爛漫の春はまだ遠いが、ひっそりと足下に並んでいる木瓜も今の季節には貴重なものである。
起ち上がって周りを見ると、大峯の雪嶺がはっとするほど国原の景色を引き締めている。これもまた、まほろばの姿である。

二月は雪から

探鳥の徑また梅を探る徑
梅一木また一木を探りゆく

先週、梅がほころんだ。

小さな梅園がいつもの探鳥を兼ねた散歩道の途中にある。通るたび必ず立ち寄るようにしていたが、蕾の様子を見るだけのつもりが、思わいもかけず開花しはじたのに驚かされた。
昨日はすでに何輪も開いていて、まさに毎日、梅一輪また一輪の歩みを見せている。
やがて、あっちの木、こっちの木と、スピードをあげながら本格的な梅の季節となってゆく。
今日は雪で外出は避けたが、二三日もすればまた違った景色が見られるにちがいない。

一月尽

枯芝を踏んでお靴の鳴らざりし

なるべく土の部分を歩く。

アスファルトやコンクリの舗道は突き上げてくるあの感じが好きになれない。
公園を散歩するにもできるだけ横道にそれて土の感触を楽しむ。これは距離を稼ぐ意味でも有効だ。万歩計こそ携帯しないが、通常ルートを行くより10%くらいは多いのではないか。
芝草のうえならさらに足裏に優しく具合がいい。
スキップを踏んでも靴は鳴らないが、地面の微妙な凹凸を感じながらバランスを取っているのがよく分かって、それだけで楽しくなってくるのだ。

昨日は、一年ぶりにトラツグミに遭えた。よく見るツグミとはちがって随分臆病のようである。
今日は、笹鳴きのウグイスが姿をじっくり見せてくれた。
先週末から早い梅がほつほつ笑い出してきたし、寒木瓜もポツポツ。明日からは二月。春はそこまで。

グレ竿

大北風に大青竹の堪へけり
北風や鵯棒のごと走る

葉をつけたものみながうるさく騒ぐ。

昨日はそんな一日だった。
孟宗の太竹も、まるでグレをかけた釣り竿のように大きくしなっては耐えている。
しかし、足下の竹林の中はと言えば意外に静かで、木洩れ日がさしているところなどは明るく温かそうな気もして、竹林というのは思いの外懐が深いように思えてきた。
いっぽうの、枯れた姿をさらしている落葉樹などは、骨まで軋むかと思えば、さらにギィーギィーと鳴きそのまま折れてしまいかねない音さえして、竹が柔ならば木々は剛という対比をまざまざと実感するできるのだった。

「北風」が季語だが、文字通り「きたかぜ」と読んでいいし、俳句ではよく「きた」とも読まれる。掲句では「おおぎた」と読む。
これは、「東風(こち)」、「西風(にし)」、「南風(みなみ、はえ)」と同じ用法である。