皓々と

あけましておめでとうございます。
今年も奈良から毎日発信してまいります。
どうぞよろしくお願いいたします。

ありがたの峰の峨々たり初明り

東雲がやがて力強い初日に。

思わず両手をあわせて拝む。
初日は素晴らしかったのだが、大峯の山稜は雲に隠れてうかがえない。よく晴れれば、曙光が先端を瞬間に金色に染めて神々しいほどにかがようのだが。

ゆうべ除夜の鐘を聞こうと外に出たら、中天にすばらしく白く輝く月がかかっていた。2日は2018年最初のスーパームーンだとかで、最小の満月に比較して直径が19%も大きく、明るさは30%も明るいとか。「皓々」という言葉がぴったりだ。
力強い初日に先行しての真っ白な月。
今年は天も味方してくれるかな?

サービスに頼る

褻のものを荷にもぐらせて年逝かす

大晦日の渋滞を承知の発送である。

急な事情で帰省できなくなった子供たちにお節を送ると言う。
函のなかをのぞいてみると蜜柑やら、大根やら東京でも買えるものだが、それも親心だろう。
今年一年も家族みんな無事で過ごせた喜びを、ささやかな形にして荷物に託すのだ。

果たして、今日の明日に着くのかと思ったら、大丈夫という。
だから、クロネコヤマトは頼れる。
年末年始の特別手当をたっぷりはずんでくださいね。

今年も下手な俳句にお付き合いいただきありがとうございました。来年も体が言うことをきいて、頭が呆けないかぎり一日一日を精進していきたいと思います。
みなさん、よいお年をお迎えください。

柝を打つ

雨が來て出鼻折らるる夜番かな

昨日は自治会年末恒例の夜回り。

忘年会をかねてすっかり出来上がっているので腰は重いが、ようやく行こうとなって外へ出れば予想外の雨が降りはじめている。予報にもなくみんな驚いたが、間もなく止みそうだと分かっていても、一度萎えた気持ちは再び戻ることはなく、今年は中止となった。
まだ酒は余っている。形だけ一度柝を打ってから、河岸を変えないでの飲み直しとなった。

笑って年越し

年忘一期一会のひと混ぜて

毎日のように忘年会という日々があった。

あそこへ出て、こちらへ顔出して。
同じような面子と何回も同席したりすることもしょっちゅうで、お互いにそれをなんの不思議もなくこなしている。
いっぽうで、忘年会の場が初顔合わせだったりすることもある。
「はじめまして」
「お噂はかねがね」
「どうも、どうも」
てなくらいの挨拶ですぐに溶け合うというのも忘年会ならばこそ。
あれやこれやを笑いで済ませてひと夜楽しく過ごせばそれでよし。
義理の忘年会に出なくてよくなっただけでも、ハッピーな「余生」である。

帽子が似合う人

冬帽の座高の高き男かな
冬帽の黒づくめなる緒形拳
冬帽の影の銀幕よぎりけり
冬帽を脱げば暴るる寝癖髪
退院してからが闘ひ冬帽子

座高の高いひとの後ろの席は迷惑する。

あるいは礼儀正しい人で、威儀を正すように背筋を伸ばしてるのかもしれないが、映画館などでは背もたれにだらしなく凭れていただくほうがむしろ場にふさわしいと思うのだが。
帽子愛用派としては、こういう場合帽子を脱ぐようにこころがけているのだが、なかには帽子を被ったまま平気で座っておられる御仁がおる。室内では男は帽子を脱ぐものとされているが、最近はそれもやかましく言われないようで、それは帽子が紳士のものだけではなく、子供から老人まで、夏だってすっぽりかぶるなどファッションとしても、ふだん着としても広く使われるようになったからでもあろう。

かつて出会った帽子の似合う人として緒形拳をあげる。一流の俳優というのは遠くからオーラを放つもので、新幹線の乗り換え口ですれちがった全身黒づくめの男にただ口をあけて見送るだけだったことがある。
冬帽ではなかったかもしれないが、中折れ帽も黒なら、ジャケットもシャツもズボンも真っ黒。すらっと伸びた長い足に釘付けとなってしまった。同じ俳優で上原謙などもいかにも似合いそうだが、男臭さという点では絶対緒形のほうが魅力的である。
最近の人気俳優で、帽子が似合うと言えばはたして誰なのだろうか。すぐには思いつかない。

17年の句より(後編)

昨日に続いて今年後半を振り返ってみる。

夕刊の朝来る里のほととぎす
父の日の男料理の豪気かな
首を振る参千円の扇風機
手に触るるものを枕の昼寝かな
初しょうろさまを流して海昏るる
河原石積める垣内の鳳仙花
新涼のジャムの瓶開く音高く
陽石に蓑虫這うてゐたりけり
白無垢の芙蓉の底のうすみどり
右肩の少し怒れる案山子かな
こもりくもいよいよ奥の曼珠沙華
間引菜のひげ根もろとも椀に浮く
降り敷いてなほ隙間なく銀杏散る
急ぎとて一行の訃の入む身かな
ノルディックウオークの杖に秋惜しむ
防人の踏みし峠の鷹柱
木守柿終のひとつになれりけり
二三両こぼし萬兩紅つくす
いくばくの気流に鳶の小春かな
大綿の日陰に溶けてしまひけり

前半に比べると同じ二十句でも水増し気味である。
これを好きな順に並べると、

首を振る参千円の扇風機
夕刊の朝来る里のほととぎす
こもりくもいよいよ奥の曼珠沙華
右肩の少し怒れる案山子かな
ノルディックウオークの杖に秋惜しむ

これらはどれも即吟であった。得てしてあれこれこねくり回すときはたいした句じゃないときが多い。
今年も前高後低、好不調の波が多い年であった。来年こそ年間通じて平常心をたもち、安定した作句につとめなければ。

17年の句から(前編)

賀状も出して一息ついたところで、今年を振り返ってみる。

アルバムの校舎は火事の前のもの *
三輪山に鈴の音冴ゆる登拝かな
閏秒あるかなきかの去年今年
投げ独楽の宙に紐解く視線かな
春ごとの神のまぐはひ囃したて
朱印所の小窓閉ざして春火鉢
一瞥をくれて再び恋の猫
梅切り貼り桜切り貼り春障子
分骨の日取り定まる彼岸かな
初花の車窓となれる赴任かな
春装の小町通りにあふれたる
粉もんの軒を借りたる氷菓売 *
営業職なれば靴まで更衣
開け放つ牛舎突き抜け夏燕
むき出しの牛舎の梁の扇風機
万緑の見渡すかぎり寺領とや
参道の商家廃れて軒忍
酒船石涸るるにまかせ竹落葉
頬杖の手に握らるる扇子かな
百日紅ごと売りに出て二百坪

*のついたものは、結社の雑詠鑑賞でとりあげられた句である。
いつもなら前半後半それぞれ十句としていたが、いろいろ並べてみるとこの前半は比較的好調で、私個人の傾向がわりにはっきりと浮き出ているような気がして、好きなものばかり二十句となった。
なかでも、好きな順番で並べると、

一瞥をくれて再び恋の猫
梅切り貼り桜切り貼り春障子
百日紅ごと売りに出て二百坪
アルバムの校舎は火事の前のもの
初花の車窓となれる赴任かな

深刻に自己を見つめるというのではないが、それでもやはり主観は捨てきれないもので、客観写生に徹しきれない自分がいる。それを肩の力をぬいて軽くというか、さらりと詠めたのはよかったのではないか。花鳥諷詠、客観写生を標榜している結社において若干異端にあると自覚しているが、こうした好きな句がもっと数多く詠めるようになれば、それもまた吾なりと思うのである。