秋の音

バスハイク一団ばらけ草雲雀

今日は飛鳥晴れ。

彼岸花と飛鳥寺

飛鳥寺の鐘の音が渡って行く。
自分もと鐘楼に昇り、ささやかな浄財に見合うように控えめに撞いてみる。
それでも、耳のそばで鳴り響く音は体全体を振るわすには十分な重みがある。

秋の空気をまだ振るわせている鐘の余韻に耳をすませていると、やがてそれは虫の声に替わりわっと身を包んだ。

バスハイクの参加者には「百人一首談話室」の小町姐さんがいたので、その辺りをちょっと案内してお見送りした。

気の早い話

かかりたる辺りは知れる無月かな

いつになったら秋晴れが仰げるのだろうか。

秋雨前線が随分長く居座っている。
まさか、今年の仲秋の日(27日)まで続くとは思えないが、ここんところの異常気象である。想定をはるかに超えたことが現実に起きているわけであり、あり得ないことはないだろう。
そんなことを考えていたら今日の曇り空である。
名月の日の天気がこんな調子だったらと作ってみたのが掲句である。

薄曇りだったら月のいる場所くらいはぼんやりと見えるだろうか。
さらに最悪は当日雨なら「雨月」。
はたして今年は。

いつの世も

露の世や憤怒悲しき持国天

憤怒の眼に悲しみを宿しているような像。

持国天さんは白鳳展に出展された當麻寺のものに限らず、東大寺戒壇院ほかどこのものも憤怒の表情が露わである。
邪鬼がいなければあのような激しい憎悪を浮かべることもないだろうに、いつの世も心配事が絶えないということか。
なかでも、人間はいつも愚かなものである。

殺生戒

放たれて稚魚の身を寄せ放生会

今日9月15日は石清水八幡の石清水祭がある日。

元は旧暦8月15日に行われた放生会で、仏教の殺生戒が神道にも取り入れられ魚や鳥などを自然に放つ行事である。
放生会は全国の八幡神社や寺社でも行われており、その時期も春であったり秋であったりする。
例えば興福寺の放生会は4月に行われ、鯉の稚魚が猿沢池に放される。
ただ、季語としては秋とされ、「石清水祭」が傍題となっているように収穫祭的性格を帯びた八幡行事としてのものをさすようである。

掲句は、放流された稚魚が猿沢池という大きな池にもかかわらず、身を寄せるように一カ所に固まっているさまを描いたもの。

役割を終えて

彼岸花立行司には緋の衣装
彼岸花飢餓の記憶は遠くなり

二日連続して金星進上。

白鳳の連敗というのにびっくり。
話変わって、立行司の式守伊之助の衣装が全身緋でこれも秋のものだろうか。

今日も天気がいいので午後から五條の古い町並みをそぞろ歩きに出かけた。
途中、大和川や葛城・金剛山の麓の畦には曼珠沙華が満開。
彼岸花も今の飽食列島では救荒植物としての役割は終わり、もっぱら観賞用、観光用として目を楽しませてくれる存在になってしまった。
それもまたよきかなと思う。

白鳳展

水煙の天女舞ひ降り古都秋天
秋天下十二飛天の翻り

白鳳展は仏像以外の展示もある。

その白眉は現在解体工事中の薬師寺東塔の水煙であろう。
雲、飛天とその天衣を透かし彫りした四面に緑青がみごとに浮いている様も間近に見ることができた。工事が終わればまた100年あるいはそれ以上はこんなに身近に見るチャンスは巡ってこないと思うとよけいしみじみと眺め入るのだった。

便法としての傍題

外来種混じりて咲ける千種かな
外来種混じり咲くのも秋千種

草野からにょっきり可愛い萩が顔を出している。

よく見ると、盗人萩だ。例の三角形の種が服についてなかなか取れないしつこい奴だ。
季題「秋草」には相応しくない花だが、今や在来種だけの野原なんておそらく全国見つけるのは困難だろう。
「千草」は「色草」同様「秋草」の傍題で、四文字を下に用いるため「秋千種」として5文字に納めたもの。
このように、傍題をうまく組み合わせるのも字数調整する場合の便法だ。

補)添削が入り、シンプルで理屈っぽさが無くなりました。