彼岸花三態

踏切の一旦停止彼岸花
幾重にも棚田を分かち彼岸花
少年の自転車降りて彼岸花

今日は榛原の句会。

途中、長谷寺から吉隠にかけての隠国の棚田がみごとに色づいていて、その畦を彼岸花が覆っている。それはまるで、卵をはさむ幾重ものサンドイッチのようにも見えた。
踏切に止まり左右確認すると否が応でも彼岸花の朱が目に飛び込んでくる。
また、自転車を停めて大和川の堤防に降り彼岸花に見とれている少年がいる。

今、大和はどこを走っても曼珠沙華が乱れ咲いている。

ねぐら入り

明日去ぬる予兆でありし夕燕

今にして思えばあれが帰燕の打ち合わせだったのか。

数羽群れ飛んでるなあと思ったときがあったが、気にも留めずにいたら家の周りからいつの間にか燕の姿が消えている。

葦原が広がる平城京跡には、8月頃から成鳥や若鳥の数万羽が集まって「ねぐら入り」が観察できるそうだ。さぞ賑やかな光景だろうと思うが、9月末頃にはもう見えなくなると言うから、広大なエリアは北や東からやってきたものにとって格好の中継地になっているのであろう。
遺跡発掘した跡を広場や建物ばかりにしないよう働きかけているグループの活動もさかんで、ぜひ鳥たちの安息地がこれからも守られるように期待したい。

天上天下唯我独尊

爽やかや童形太子獅子吼像

太子像の丸い童顔がかわいらしい。

天と地をさして例のポーズである。
白鳳展も今日が最終日。
童顔の仏さんが数多く展示されていたなかでも、ぷっくらとした太子像の獅子吼像が印象に残っている。
今日のようないかにも秋の日にはふさわしい仏様のような気がする。

闇深し

月天心路地の庇の闇深く

京都には路地が五千あるそうだ。

地元の人は「ろおじ」と呼ぶそうであるが、なかには路地自体が私有地になっており、その路地をはさむように町家が並ぶ。そこに迷い込むとまるでタイムスリップしたかのような別世界が広がることもあり、入り口に立つとのぞき込みたい誘惑に駆られそうだ。

月が天心にかかり、せまい路地の石畳が照らされた。深い軒の庇に覆われた闇がますます深みを増した。

花期が長い

花芙蓉茶巾絞りの酔ひの果て

酔芙蓉は一日花だという。

では、咲いた後はどうなるかというと、翌日あるいは翌々日にかけてちょうど茶巾絞りの菓子のように丸く縮まってゆく。
一本の木から相当の数が何日もかけて咲く、わりに花期がながい花でもある。
もうすでに終盤に入ったが、まだ楽しめる。

やがて、金木犀の香りが漂う頃にはいつの間にか終わっているという具合である。

秋野となって

放棄田の一枚ざわとゑのこ草

遠くから見るとまるで稲穂の波のようだが。

みごとに捨田の一枚がまるまる狗尾草に埋まっている。
尻尾はめいめいまちまちの方向に向いていて、草の根元ではさかんに虫が鳴いている。
ところどころには、去年の籾がこぼれたのだろうか、みすぼらしい稲も混じっているが、もう田とは言えず虫の原と言ってもいいかもしれない。これも秋野の一つと言えば格好良すぎるか。

たがて収穫が終わると発掘が始まり、来春にはまた昔のように田に戻る飛鳥の田のなかにはこのような一画もある。もしかすると、この冬の発掘対象になってるのかもしれないが。

慎みは奈辺にありや

のっぴきのならぬ色出て葛の花

これがなぜ季語になるのだろうか。

葛を見るたび思うのである。
「葛」は秋の季語だが、家そのものをも覆い尽くしてしまうような勢いの強いものに「もののあわれ」というものがどうしても感じられないのだ。たしかに葛粉の材料にはなって単なる嫌われ者ではないだろうが、それとてきちんと栽培用に手入れされてるのが条件だ。
いまではそんな担い手も少なくなって、野放図に勢力をのばしていることが多い。

害のある植物を駆逐したくて日本からわざわざ輸入した国があるそうだが、今では全国に広がりかえって迷惑な外来種となっているという話も聞いた。まるで、我が国に起こっている現象と同じみたいな話だ。
このほかにも、輸出物や梱包材などに混じって国を行き来する動植物が過去には考えられないくらい増えていると思った方がよさそうである。

そういう目で見ると、葉っぱの陰からちらちらとのぞかすあの外来種みたいに大柄な花も毒々しくさえ見えてきて、「葛の花」自体が独立した季題としての地位を与えられているのが不思議に思えてくるのだ。まるで、下心、劣情が丸見えのようで。