町木

町の木の楓紅葉の庁舎かな

今我が町の街路樹や公園、学校は今紅葉真っ盛り。

摂社として龍田姫をお祭りする龍田大社があるからだろうか、町のシンボルツリーはモミジである。大和川の河川敷から街を見上げると(全体が信貴山に向けた坂の町)、町の至る所が紅葉しているのがよく見えるのだが、それは見事なものである。たっぷり広くとった校庭の小学校など、フェンスに沿って植えてある木はすべて落葉樹らしく楓、桜、欅などそれぞれに色を染め分けてみごとなアンサンブルだ。

柿畑の主

色鳥の尾羽を金茶に打ちふれり
尾羽打てる鳥のしばしに柿の畑

法隆寺にはなくても、斑鳩の里にはある。

柿畑である。法隆寺の後背部にあたる、法輪寺や法起寺の辺りはまさに里といっていい風情が残されていて、果物の産地でもある。大小のため池の周りには葡萄、無花果、柿の畑が点々と広がっていて、今は柿の木に真っ赤に熟れた実が鈴なりである。
遊歩道も整備されているのでその周りを歩いていると、「カタッカタッ」という音が響き渡ってきた。その主は柿の木のてっぺんにいるジョウビタキの雄で、しきりに尾を打ち鳴らしているのだった。ジョウビタキというのはいろんな鳴き声を聞かせてくれる鳥なのだが、その日はただ尾を打ち鳴らすのみ。何のための行動かは分からないが時々に響く音にしばらく耳を傾けた。

晩秋の響き

ばったんこ錆びたる音を打つばかり
ささくれて音のもれたる添水かな

まるで飛鳥の酒船石を模したようかのような石造物がある。

四つ五つを少しずつ傾斜をつけて組み合わせ、上から下へ水を流すしかけである。ここは何時行っても枯れていて何のために作ったのか首を傾げることが多いのであるが、三連休のあいだに訪れたときに水が流れているのを初めて見た。
この水は途中いろいろな変化をつけながら、曲水を描くようにやがて大池に流れ込んでいくのであるが、段差を大きくつけてある部分では山紅葉が覆っているのでせせらぎの音だけ聞こえてきて、これが五感すべてを癒やすように心地よい。
で、この酒仙石だが、近づくにつれ何だか様子が変だ。添水の仕組みを設えてあるのはちがいないが、周囲にひびきわたるような小気味いい音とはいかず鈍い音しか聞こえてこない。どうやら竹が古びてひび割れているのが原因だった。まさに竹刀で叩くような音そのものなのである。

明日はいよいよ立冬。晩秋を感じとるにはちょっとわびしい音であった。
馬見丘陵公園にて。

斑鳩・法輪寺

風鐸のことりともせで秋深き

終日薄曇り、風もない斑鳩の里はいよいよ秋深く静かである。

斑鳩・法輪寺の三重の塔

時折、柿畑から鵙、溜池ではカイツブリが聞こえる程度。ちょうど今法輪寺が秘仏公開中というのに誘われて門をくぐる。午後も遅い時刻だったのが幸いして、昭和19年に国宝・三重の塔が焼失した際にも奇跡的に助かった飛鳥仏、平安仏にじっくりお会いすることもできた。
昭和50年に名工・西岡棟梁の手により再建された三重の塔を見上げると、軒の四隅の風鐸が夕照に鈍い光をみせている。あの風鐸の音というものを聞いてみたいと思ったが、あれだけ重そうな風鐸をゆらすのは秋の風では無理で、やはり木枯し、北風といった力強い冬の風のほうが似合うのだろう。

甘党

ぜんざいや人生の秋説く君と

久しぶりに梅田に出た。

米子に住む大学時代の友人H君としばし旧交を温めるためだ。兵庫出身の彼が郷里で同窓会に出るのを機会に大阪で会おうとなったわけである。
卒業したあとは、東京勤務となった彼とたしか一回あった記憶があり、それが何時のことだったか正確には思い出せないが第一次石油ショック直後の頃ではなかったと思う。多分それ以来だからかれこれ40年ぶりの再会である。
会うなりお互い「変わらないね!」の挨拶を交わし合うが、お互いに40年経っているので変わらないわけはないのである。同じように歳をとり同じように老けていくのであり、その歳相応の老け具合に両者の差がない、または少ないというだけなのである。これが一方が年齢以上に老け込んだりしていると違和感を感じて、言葉には出さないが腹の中では「こいつ、大病したのかなあ」とか「いろいろ苦難をくぐり抜けてきたんだなあ」と思ったりしながら会話が続いているのである。
今日は二人とも歳相応の老化だったのは幸いだった。

ただ、人生の第4コーナーが見えてくる頃には、酸いも甘いもの経験が醸し出す何とも言えない人間の味というものが沁みだしてくるのが一般であるが、とりわけH君が会話の中でときおりみせる人生の箴言には学生時代、おたがいに当時吹き荒れた学生運動には背を向けて麻雀にうつつを抜かしていた毎日と引き比べて隔世の感を覚えるのであった。

食後は甘味処で、僕はぜんざい、きなこクリームパフェのH君は「でっかいなあ」と言いながら結局は全部平らげた。そう言えば、身長180センチはゆうに超える大男のH君は昔から甘党だったのである。

主不在

無住寺の熟れゆくままの蜜柑かな

寺にかぎらず人家でも最近は空き家が多い。

長く閉門されたままになっている家や寺などで、手入れもしてないと思われる木にたわわに稔った蜜柑や柿などがのぞいていて、そのまま放置されているのをよく見かける。
おそらくは誰も採ることもなくそのまま朽ちてしまうのだろうが、樹木はともかくやがて建物自体さえ廃屋になってしまうかもしれないと思うと暗い気持ちにさせられる。

共生関係

山ひとつ距て神鹿害獣に
駆除といふ法の名のもと鹿撃たる

つい最近も街なかに迷い込んだ鹿が「駆除」という名目のもと撃たれたというニュースがあった。最近は、熊、猪などが人家のまわりに出没しては哀れな末路をたどっている。
かつて長い間うまく間合いを図って共生関係を築いていたものが、ここにきてそのバランスが崩れてしまったようだ。原因はもちろん人間側にあるわけだが、このような話を聞くにつけ国の衰亡、包容力の衰えというものを思わざるを得なくなる。