野を歩く

ことごとに言問ひ歩く千草路

秋野の句である。

初めて見る草、花、草、花、草。
一歩進んでは「これは何と言うの?」とお互いに尋ね合うのでなかなか前へ進まない。
気がついてみると、ズボンの裾、靴紐もひっつき虫でいっぱいである。

古都を染める

櫨紅葉大仏殿の屋根もかな

奈良の秋と言えば南京櫨。

東大寺大仏殿裏の櫨紅葉

カエデより一足早く古都を真っ赤に染め上げる。元興寺の門をおおう南京櫨も見事だが、奈良公園の中でもちょっと外れた大仏殿の裏手、正倉院へ向かう通路の南京櫨の並木などは見事だ。正倉院側に立って大仏殿を振り返ると、黒くて大きな屋根とのコントラストが素晴らしい。色の組み合わせもそうだが、櫨は高く育つので大きさのバランスでも大仏殿に負けていないところがその妙味ではあるまいか。

葉は切れ込み部分がないハート型のようであり、厚みもあって滑らかなので、葉裏までしっかり紅葉するとツヤもいい。中国からの外来種だが、実を鳥が運んで自生することも多く、全国に街路樹としてもよく採用されているということだ。
実はまだ青かったが、これが初冬、葉を落とす頃には白くなって蝋燭の材料となる。

暮れかねる

飛行機雲綿になりけり秋入日

朝と日中の寒暖差が大きい日だった。

薄いとはいえ、やはりダウンジャケットだ。ちょっと歩いただけで汗ばんでしまうのには参った。
この日、先日の中学のクラス会で会ったT君と語らって秋の奈良を満喫した。朝から石上神宮の秘宝「七支刀」が目当ての「大古事記展」、三年ぶりに公開された正倉院、そして恒例の「正倉院展」をめぐればもう午後3時。家に帰り着く頃はまだ日が残っていて、きらきらと輝きながら西の方へまっすぐ伸びてゆく飛行機雲が、やがて風に流されて太い棒のように形を崩していく。

捨てるということ

秋灯や居心地悪き書物増へ

机の上がまた狭くなってきた。

引っ越しの時思い切って本を整理し、書棚も処分してきたのが今になって効いている。アマゾンが手軽なのでつい俳句本、源氏本やらいろいろを買ってしまったり、図書館でいっぺんに何冊かを借りてくるものだから、ばらばらのサイズの本が平積みになってうずたかくなって今にも崩れそうである。
あげく、最近では書斎をはみだして食卓にも進出してきたものだから家人からは小言をもらうし。

ものにこだわる歳でもないと思うが、さて気に入った本はなかなか捨てられないものだ。

地味な花

溝そばの瓶にあるとき重たげに

時期的には初秋の野花である。

水際に咲く雑草とされるせいか、あまり目立たない。クローバーの花のように小さな花が集まっていて、ふつう群生している。
この地味な花の一輪挿しが室内にさりげなく置かれているのを見ると、山村のなかにとけこんで生きておられる主の人となりがしのばれてホッコリとした気分にさせられる。ただ、この花の密度が高いせいか花瓶にいけてみると、瓶のなかに立つというのではなく周りに垂れ下がるのがよけい野の花という風情を増しているようである。

小宇宙

水盤の小さき林の櫨紅葉

茅葺きの古民家を改築した宿がオープンしたばかり。

一日の客は一組限りの贅沢な宿で、主は金峯山寺の行者さんでもある。天井は高く、太くて立派な梁がむき出しである。囲炉裏の設えられた広間は松の床が敷き詰められ、裸足で歩くのが心地よい。
床の間には蔵王権現の御しるしのほか法螺など先達必携の道具が並べられ、鴨居には忍者の里に近いことをうかがわせる武具などもかけられて、その土地の歴史をしのばせる工夫などもされている。
うす暗さにもだんだん目が慣れてくると、水盤に水がいっぱいはられた盆栽が部屋の奥の棚に飾られているのに気づいた。

コンパクトに櫨の木を密集して植えてあり、それらは半ばすでに紅葉し、半ばは紅葉を待つばかりという風情。主、やるなと思った。

晩鐘は鳴ったか

夫の刈るそばから落穂拾ひゆく

夫が鎌で稲刈りをしている。

最近はほとんどが機械刈りで、穂ごとすくい上げてしまうせいか落ち穂拾いという光景はとんと見かけなくなったように思う。やはり手刈りとなると落ち穂も多いのだろうか。夫がまだ稲刈りに余念がないあいだ、妻はせっせとこぼれた穂を拾い集めている。
これ以上は獣たちの好きにはさせないぞとでも言うように。