晩夏の輪唱

をちこちの序章終章法師蝉

さすがにこの時期になるとアブラゼミは聞かない。

昼のツクツクボウシ、夕のかなかな。
いずれも晩夏の趣に富み、この季節には欠かせない千両役者である。
かなかなは言うまでもないが、ツクツクボウシというのもよく聞いているとなかなか味があって、止んだかなと思うと間もなくまた「じーぃ」と最初から鳴き始め、いよいよ佳境に至るとテンポを一段と早めて最後には「じーーーーー」で終わりを告げる。
これがあちこちにいると、さながら何部もの輪唱のように聞こえてくる。
このような、ちょっと他の蝉とは違うところが面白いと思う。

ペットの運動不足時代

揺れてみて誘ひもしてみせゑのこ草

別名、猫じゃらしである。

当節、猫グッズの店では、ネズミに似せたものなどいかにも猫の気を引きそうなものが並んでいる。猫や犬というものは外で飼うものだという時代には、猫じゃらしのおもちゃで遊ぶのは子猫というのが通り相場で、成猫なんか見向きもしなかったものだ。
考えてみれば、猫じゃらしのような子供だましなどよりもはるかにエキサイティングな獲物が周りにいっぱいいた時代だったのだ。天井やドブを走り回るネズミ、田んぼや畦道のカエルや蛇。

ペットにとっても飽食時代の今は、老猫だって玩具に夢中になる。これで遊ばせるのも運動不足の解消というわけだ。

独学の限界

藪騒の葉擦したがへ法師蟬

藪騒。やぶさいと読む。

俳句独特の用語らしく広辞苑にも掲載はない。
ちょうど「潮騒」で風や波が島の海岸や海辺の町を騒がせるのと同じように、竹林が風に揺れてサワサワしている様を言うようです。吟行時に教わったことです。
例として、

百幹の竹の春なる藪騒に(作者不詳)

「百幹」という言葉も初めて知りました。

で、さっそく使ってみたわけですが、やはり吟行や句会のいいところは先達の思いもよらない表現に刺激を受けることです。

なにごとも独学には限界があるのだろうと思います。特別な才能も備わってない身には。

苦行

街灯の届かぬ路地の虫浄土

涼夜である。

この住宅地はまだ空き地もあって、雑草も茂っているせいか、窓を開けたまま電気を消して目をつむっているといろいろな虫の声が聞こえてくる。たいがいはコオロギだろうが、馬追やキリギリスも。さすがに鈴虫、松虫は聞かれないが、夜気がもう十分涼しいのでこれら普通の虫の声だけで十分浄土に身を置いているような錯覚にとらわれる。
その浄土の中でいい句が授からないか、苦吟している時間は苦行とは感じないのである。

秋動き出す

陵はねむり木の実を太らしむ

天武・持統天皇陵へのアプローチは畑である。

陵はこんもりした丘の上にあって、周囲を見渡しても同じような景色が広がっているだけの何の変哲もないような場所だ。周りには住宅が数戸だけという、本格的な中央政権を打ち立てたひとたちの陵にしてはすこぶる地味な感じである。
アプローチの両サイドには柿が青々として、斜面には大きな栗の木があり青い毬がもう随分大きくなってきている。

あと一月くらいすれば、秋の色に染まって幾らか彩りをますのだろうか。

想像と創造と

お百度を踏むも巡るも今日の露

朝起きて初露かと思ったが、雨の跡だった。

ただ、そろそろ露が降りてもおかしくない時期だ。折からの長期予報では、来月上旬は気温も低いらしい。秋雨前線が居座っているあいだは露は見られないだろうが、そのうち一面の露景色に驚く朝もあろう。

露というのは歌にしても句にしても、題材として古今より数多く詠まれてきたものであり、想像もかきたてられるものがある。掲句にしても、もとより信心こころの薄い自分でも一応形にはして見せられるだろう。
ただ、それが詩心あふれ文学性が高いかどうかは全く別物ではある。

この秋は、何度か「露」にチャレンジしてみようと思う。