稲作

孕み穂のたちまち開き稲の花

稲の花の開花時間というのはごく短いそうである。

目に見える白い花のようなものは、たいがいは受精が終わったあと籾が閉じている状態で、雄しべが取り残された状態のことが多いという。
とは言え、数日かけて先端から開いていくので、うまくすると開花状態の稲を見ることができるかもしれない。

毎年のように異常高温が続いたり、今年などはカメムシが大発生するなど農家にとって障害は多いが、開花からしばらくの間の生育次第によって出来不出来が決まると言うから、一番の勝負時ということになる。

葡萄直売

二上の裾野めぐらし葡萄棚

意外だが大阪は葡萄の産地である。

生駒山地系の南部の柏原から、金剛山地系の羽曳野方面にかけて、山の裾野には見事な葡萄棚が広がっており、早いものでは7月から出荷している。
とくに、竹内街道越えの道をたどり大阪に出る二上の裾野あたりから王陵の谷とよばれる一帯は、道路の至る所で直売もあってここが葡萄の産地であることを実感できる。

口上

盆礼の口上教へられしまま

小さい頃、と言っても小学生高学年の頃だが、たまに一人で親戚に行かされることがあった。

大阪の北の方からバスに乗って九条新道まで。さいわい乗り継ぎはなく途中天満橋などを通って一本だったような記憶がある。
親から挨拶はこう言うんだよと言い含められ、盆暮れの中元や歳暮を持たされることもあった。商売をしているせいか、比較的口やかましい親戚だったので、そう言うときはちょっと緊張などもした。
この親戚はやはり熊野の出だったので、いなかの慣らい通り中元と言えば素麺とか砂糖とかが多かったように思う。子供にとってはそれなりの重さはあったのだろうか。今となっては記憶も遠い。

この親戚とは、いまでは代が変わったりして疎遠になってしまった。

三重高校惜しかった

稲妻の峡の出口をふたぎけり

昨日など珍しく遠雷があった。

大和盆地から大阪へぬける狭隘部の空が時に明るく、その後しばらく時間がたってからドドドという響きだけが伝わってくる。
これが山峡の集落なら、しばらくは峡から抜け出すのをためらうかもしれないと連想してみたが。

甲子園で故郷の三重高校が惜敗した。想像以上の健闘を讃えたい。
甲子園に行く予定が天気が悪そうなので取りやめ、かわりに涼しいうちに軽く洗車のつもりが、どんどん天気がよくなってきて暑さでばててしまった。

悠久という虚しさ

旧蹟の無聊なぐさめ花野なす

平城京、藤原京は、ただただ、だだっ広い。

そのだだっ広さが、忘れられた都の跡という感懐を深くするのだ。
発掘した跡がいったん埋め戻されてただの更地になってしまうので、よけいその感が強くなるのかもしれない。
観光のため一画に花などを植えたりもするが、それすらも虚しいと感じてしまうときがある。

熊野の盆唄

峡渡る盆唄夜の更けてなほ
夜更けて盆唄わたる峡の村
抑揚の小さき盆唄峡の村

川をはさんで手前三重県、向かいは和歌山県飛び地。

吉野熊野国立公園内にある父母の故郷である。
いまでも行われているのだろうか。かつては、熊野川上流の北山川をはさんで三つの集落が、盆の期間それぞれ持ち回りで毎日盆踊りを開催するのだ。レコードでも、炭坑節でもなく、この地方独特の盆唄だけを集落ののど自慢が未明まで唄い、盆休みに帰省してきた子供や孫たちがそれに合わせて輪になって踊るのである。深夜ともなれば青年会中心の踊りとはなるが、旧盆の時分ともなれば、川をはさんだ山峡の夜は昼とうって変わって蒸し暑さもうすれ随分過ごしやすくなるし、若い衆には苦にはならない。
唄の内容は忘れてしまったが、歌詞もリズムもメロディも単調なものであったことは確かだ。未明までずーっと通しで唄い、踊るには、このような抑揚の少ないもののほうが適していたのかも知れない。

今より40年ほど昔の熊野の思い出である。

膏肓に入る

手作りの竿のしぼれる根釣かな

釣は秋に限る。

と言っても、冬や春、夏それぞれに対象の魚はある。ここでいう釣とは磯釣り、あるいは岸壁釣りのことである。冬、深場に落ちる前にしっかり体力をつけようとして食欲が盛んになり、岸辺にも寄ってくることが多く、体も相当大きくなって力も強いので、いわゆる引き味もいいのである。
そしてベテランともなれば、ただ釣るだけでは飽きたらず道具にもこだわるようになり、それも昂じると自作までするようになって、傍からはなかばあきれ顔で見られたりする。
ただ、やはり手作りの竿や浮子などで大物をあげたときなどの醍醐味は別格で、そうなるとますます病膏肓に入るということになる。

今は海のない国に引っ越してきて、波音、潮風が聞けない、見られないのはやはり寂しいものがある。