白萩のくくりもせざる乱れかな
庭の萩が咲き始めた。
芽吹いた後相当すかし剪定したのだが、それでも大きな株に育ってしまって周囲の草木を圧倒しそうなほどになっている。
括ってしまっては味気もなくなるのでそのままにしてあるが、それにしても萩には「乱れる」という言葉がよく似合う。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
白萩のくくりもせざる乱れかな
庭の萩が咲き始めた。
芽吹いた後相当すかし剪定したのだが、それでも大きな株に育ってしまって周囲の草木を圧倒しそうなほどになっている。
括ってしまっては味気もなくなるのでそのままにしてあるが、それにしても萩には「乱れる」という言葉がよく似合う。
聖代の丈六なれや古都の秋
奈良博物館「国宝 醍醐寺のすべて 〜密教のほとけと聖教〜」へ行ってきた。
暑い間は外出がどうにもおっくうだが、今日のような清々しい秋日和に奈良公園をゆっくり歩くのはとても気持ちいい。
木のかげもたっぷりあるので、暑くなると木陰に入ればたちまち汗もひくようで、いよいよ古都の観光シーズンが到来したようだ。
醍醐寺と言えば秀吉の大茶会花見がすぐに浮かぶが、吉野や大峰の山岳修行とも結びついた密教のお寺としても有名だし、何より文書の管理が素晴らしく数万点が国宝に指定されている。奈良街道にも面し、南都の寺とは往来があったようで、東大寺再建にあずかった重源、西大寺中興の叡尊なども醍醐寺とはゆかりが深い。
今回はそんなご縁から醍醐のお山を降りてこられた阿弥陀仏、薬師三尊など貴重な国宝、重文の数々が奈良でも公開されることになったので、これを見逃すわけにはいかない。
快慶の手になる後白河法皇追善といわれる弥勒坐像菩薩もこれでもかというくらい精緻で見ごたえもあるが、平安期の作と思われる大講堂本尊の阿弥陀如来座像がいかにもほとけ様という体の飾り気もなくすばらしい。座像であるが立てばその倍の一丈六尺(4.8メートル)といわれる丈六仏である。これを超えるものがいわゆる大仏と言われる。
なお、薬師堂本尊の薬師如来坐像は半丈六。丈六仏の半分の高さで、座っておられるから実寸はその四分の一で1.2メートルの高さと言うことになる。
ひさかたの風の待宵一入に
長雨が一服。
昼頃からは晴れ間がでてきて、そのまま夜は涼しい風が吹いている。虫の声も一段と賑やかで家の周りじゅうから聞こえてくる。
まさに名前にふさわしい素晴らしい今年一番の秋の夜だ。
をちこちの序章終章法師蝉
さすがにこの時期になるとアブラゼミは聞かない。
昼のツクツクボウシ、夕のかなかな。
いずれも晩夏の趣に富み、この季節には欠かせない千両役者である。
かなかなは言うまでもないが、ツクツクボウシというのもよく聞いているとなかなか味があって、止んだかなと思うと間もなくまた「じーぃ」と最初から鳴き始め、いよいよ佳境に至るとテンポを一段と早めて最後には「じーーーーー」で終わりを告げる。
これがあちこちにいると、さながら何部もの輪唱のように聞こえてくる。
このような、ちょっと他の蝉とは違うところが面白いと思う。
揺れてみて誘ひもしてみせゑのこ草
別名、猫じゃらしである。
当節、猫グッズの店では、ネズミに似せたものなどいかにも猫の気を引きそうなものが並んでいる。猫や犬というものは外で飼うものだという時代には、猫じゃらしのおもちゃで遊ぶのは子猫というのが通り相場で、成猫なんか見向きもしなかったものだ。
考えてみれば、猫じゃらしのような子供だましなどよりもはるかにエキサイティングな獲物が周りにいっぱいいた時代だったのだ。天井やドブを走り回るネズミ、田んぼや畦道のカエルや蛇。
ペットにとっても飽食時代の今は、老猫だって玩具に夢中になる。これで遊ばせるのも運動不足の解消というわけだ。
藪騒の葉擦したがへ法師蟬
藪騒。やぶさいと読む。
俳句独特の用語らしく広辞苑にも掲載はない。
ちょうど「潮騒」で風や波が島の海岸や海辺の町を騒がせるのと同じように、竹林が風に揺れてサワサワしている様を言うようです。吟行時に教わったことです。
例として、
百幹の竹の春なる藪騒に(作者不詳)
「百幹」という言葉も初めて知りました。
で、さっそく使ってみたわけですが、やはり吟行や句会のいいところは先達の思いもよらない表現に刺激を受けることです。
なにごとも独学には限界があるのだろうと思います。特別な才能も備わってない身には。