子規の鐘

行春や鐘は正午を告げにけり

西円堂脇の鐘楼
八角形をした西円堂の脇にその鐘楼があった。

西院伽藍の左奥の西円堂は拝観コースから外れていることもあって訪れる人はまばらである。階段を昇った一段高いところにあるので、木の陰から五重塔や金堂を見下ろすことができるし、遙か三山も見渡せる位置にある。
この日は春霞で残念ながら遠くまで見通せなかったが、太子はここから20数キロの道を馬で飛鳥に通われ、通われたみちは「太子道」、あるいは斑鳩と飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)が直線的に結ばれていたので、古代道とされる「中ツ道」や「下ツ道」とは斜行する形になる「筋違道」とも呼ばれている。

話を鐘楼に戻すと、この鐘が子規が詠んだあの鐘なんだそうである。西院伽藍の外、鏡池ほとりにあった茶店はもうないがその跡とされる場所に子規自筆の句碑が建っていた。
正岡子規の句碑

ボランティアさんによるガイドが終わったときその鐘が正午を告げた。

やきもき

別れ霜頼みつ今日の鉢用意

霜はいつまで降りるのだろう。

夏かと思えるような日があるかと思えば何度も遅霜注意報が出るような寒い朝があったり、今年の天気に振り回されている感がある。これまでも、今日が最後かと期待して春の庭作業を進めるのだが、夕方予報を聞いては慌てて鉢を取り込んだりなんとも落ち着かない。
とくに、蘭は引っ越してこのかたまだ一回も植え替えをしてないので、今年こそはすべての鉢の手入れにいつも以上に忙しくなりそうなので余計やきもき、はらはらさせられる。
自然が相手だから文句の言いようがないとはいえ、やはり気候は暦通りがいい。

泥はね

雨だれに勿忘草のお辞儀かな

軒下に植えてある忘れな草を雨だれが打つ。

泥はねの跡がかわいそうだからと周りにもみ殻を敷いてやったら、もう泥はねはかからなくなって薄汚れた白い花もきれいになったのだが、ときおり落ちてくる雨だれに花柄がぴょこんとお辞儀してはまたもとに戻るのを繰り返していた。

背筋を伸ばす

乱るるも予定調和か萩若葉

萩の芽が日に日に伸びている。

しかも直立したまま50センチ近くまでになり、これがあの萩の若葉の姿なのかとあらためて驚いている。
1メートルも伸びてくるとやがて己が姿勢を保てなくなって各枝が乱れ、それがまたかえって優美な姿として楽しませてくれるわけだが、茎が柔らかくても背筋をピンと伸ばした姿もなかなかいいものだ。

追)また今日もちょっと赤くなったばかりの苺がちぎられていました。犯人は誰なんだろうな。

日当たり

母見よと君子蘭おく仏間かな

外に比べて室内の気温が比較的高いせいか、日当たりが一番いい仏間に置いた君子蘭が今満開である。

例年ならばこの時期には鉢ものはすべて外に出して秋までたっぷり外気にあてるところ。しかし、今年は未だに霜注意報が出るほど朝の冷え込みがきつい日があるので、蘭はじめ室内に取り込んだ鉢物はまだ外へ出せないでいる。
もういいかと思って先発組のオレンジなどを出してはみたものの、天気予報などをみては慌てて取り込んだりする日々が続いている。明日はもう大丈夫かなと思っていたが、今テレビを見ると再び注意報が出たようである。やれやれ。

誤字

ドライヴの視野の齣なる花馬酔木

ある句会に投句したものだが、披講となって肝をつぶした。

誤字というミスを犯したのだ。誤字は文法的誤りとともにその段階で失格も同然。仮に、直ちに誤字とされなくても全く別の意味になってしまうようでは句意を正しく伝えることはできない。
「馬酔木」というのはそれだけでは季語にならないで、「花」あるいは「咲く」を伴ってはじめて春の季語とされる。
その花というのはスズランのような花が房なりになるのだが、「風に揺れる」「鈴の鳴るよう」「(花の)白さ」だの、「花馬酔木」そのものを詠うとどうしても類想的な句に陥りやすく大変難しい季語だと思う。だからこそ「花馬酔木そのもの」の状態を詠わないに苦悶しながら、ようやく掲句となったのだが肝心な部分「齣」が「駒」になっていた。

車を運転していて視野の隅にとらえた一瞬の花馬酔木。自分としてはうまく言い得ているようで満足もしていたのだが、誤字は痛かった。

掘り出し物

露地売りの筍並べるまでもなく

並べ置くまでもなき筍を売る

裏山の筍今日も掘りて売る

昨日妻がスーパーへ行ったついでに買ってきた露地売りの筍の絶品だったこと。

自分ちの竹林から朝掘ってきたばかりと見える、いかにも柔らかそうで香りいっぱいの筍がスーパー出口の露地で売っていたんだと。あまりにうまかったものだから、今日もと出かけたらすでに完売で明日の入荷は分からないという。おそらく口コミなどもあって、量にかぎりのある筍は並べる間もなく売り切れてしまったのだろう。安くて旨いものはみんなよく知っていると言うことだ。

商売に欲がないと見える売り主には、限られた期間だけでしかもいくらもない量の筍を売ったところで小遣い稼ぎ程度にしかならないだろうが、こうして気候もよくなってくると畑作業に精出して働けることを喜んでいるに違いないし、まして旨かったと言っては毎日でも買いに来てくれる客のあることは何よりの励みとなろう。

一年を通した竹林の手入れなくしてうまい筍は採れないという。また来年もいいものを提供してくれることを期待して売り主のつつがなきを祈る。