解放

白南風や新規ジャンルの本借りる

実質的な梅雨明けのようである。

あっという間に真夏日の基準35度を超えて、炎天に長くたっていられない。
バイクの受ける風もむせぶような熱さ。
しかし、空気はわりとからっとしていて木蔭などにいれば何とかやり過ごすことができた。おかげで不快指数は上がらず、梅雨の陰鬱なはりつくような蒸し暑さからは解放されたのは嬉しい。
家事の方でも久しぶりの洗濯日和とあってせいぜいした人も多かったのではなかろうか。
生きているうちは気温はもう十年前のものに戻ることはないだろうが、「陰湿感」から解放されるだけでも喜ばしい。

落ち目

炎天に伊賀の訛を聞きにけり

三日続けての病院がよいの中日。

今日は歯科の定期診療。上手に歯磨きできてると言われて子供のように喜ぶ。
その足で、スーパー跡にできたホームセンターへ開店セールのバーゲンへ。この地方としては品揃えもスマートで、品ぞろいもよさそうだ。おかげでメジャーのオールスターゲーム、大谷翔平君のスリーランを見逃した。
それにしてもいい天気。予想通り奈良盆地は梅雨明け状態となって水銀柱(古るッ)もうなぎ登り。ついでだからと、午後からは伊勢の方へ。
自宅に帰ったのがもう夕方で、運転の疲れか、往復3時間で腰は痛いは、眠いはで、あれほど長距離運転が苦にならなかった体もすっかり落ち目のようである。

限界値

古びたる猫にも慣れぬ暑さかな

人間の体温、平熱は35度から36度。

それに対して猫族は3度くらい高い。
だから夏にしがみつかれるととてもじゃないが長くいられない。それでは猫は平気かというとそうでもなさそうである。
やはり夏には膝に乗ってこようとしないし、蒲団にももぐってこない。冷房が効いていたとしてでもある。言われなくても一定の距離を保って過ごしやすい場所に身を置いている。
ただ、気温が体温を超えるようになるとさすがにぐたっとなっているのは人間同様である。人は冷たいものを口にしたり、体に当てたりしてしのごうとするが、猫族も最も楽に過ごせる場所を知っている。全身をおもいきり開いて寝転んでいるところがすなわち彼らの探しうる最適な場所なのである。
まあ、最近は無理しないですぐに冷房のお世話になるので猫の限界値を超えることはないのであるが。
関東の方では梅雨が明けたそうである。東の方の前線が北へ上がってしまったのだから、西もすぐに追随するのであろう。これまでの暑さは前座、いよいよ夏の真打ち、35度超えの日がやってくる。

団欒

手花火のつきて背後を見上げけり

楽しい時間はあっという間に終わる。

それを生まれて最初に知るのは手花火であろうか。
花火を買ってあるのを知っていると、子は夜になるのも待ちきれないほど早く早くとせかす。
いざ始めれば、大量に買ってあるわけでもなく、たいていは一包み程度だから子供が多ければ多いほど早く終わる。
あとは火薬の匂いと煙がたちこめるなかを大人が火の始末してしまうと、子供たちはやっとあきらめる。
そんな昭和のささやかな遊び、家族団らんがなつかしい。

初蝉

蝉の竿叩けばたてり朝ぼらけ

胡瓜支柱に熊蝉がしがみついていた。

声もたてないやつなのでどうやら雌とみた。発つときも声を上げなかったし。
すでに遠くで蝉が鳴いているのを聞いていただけに驚きはしなかったが、今年初めて見る蝉は羽も透き通って懐かしささえ感じるものだった。
あまりに身近にいるものだからいたずら心が湧いて、庭の胡瓜支柱をとんとんと叩くとおしっこを降りかけられることもなく飛びたっていった。

流し見

鉾町の人寄せつけぬ気にふれり

とんだ場違いな気がした。

伝統臭が鼻について長くいる気にはなれなかった。おそらく京都の祭中の祭、ということは日本の祭中の祭ということになるが、あの高い鉾にも見下されているような、そんな惨めささえ感じたのだ。
所詮祭は祭、地域の人たちのものなのだ。自分たちの祭を愛するということは地域を誇りに思い愛しているわけだ。
第三者はへいそうですかいと言うしかない。
では自分にとっての祭はと自問するがこれと言ったものが見つからない。
そんなひがみ、ねたみも混じって祭のニュースを流し見している。

文化的生活

国宝の多き一国梅雨湿り

国宝の一番多い都道府県はどこか。

まず頭に浮かぶのは京都か奈良かだが、意外に東京である。
これは美術館などが多く美術工芸品が大半を占める。
二位が京都で、建造物では寺院などが多くて全国一。
そして、三位が奈良で法隆寺始め建造物も多いが、やはり仏教彫刻が多いというのが特徴である。
建造物や仏像などは観光収入以外によほど基礎体力がないと維持管理が大変で、小さな寺院などでは仏像博物館などに預けたままという例も多い。
まして日本には高温多湿という宿命を背負った国なので保存には大変な苦労があることだろう。当然国や自治体の保護がないと維持するにも大変である。
その文化財によって成り立つような観光県にも新自由主義的な政党の首長が誕生し、さっそく民族博物館のコストパフォーマンスを言い出した。大阪で文楽がやり玉にあがったように、背筋の凍るような文化財政策が幅をきかすようでは果たして憲法の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」さえ守られるのかどうか。
最近の政権党にも文化の薫りがする人材が見当たらなくなってきたようにもみえ、梅雨湿りでなくても心まで冷えてくる。