緑に染まる

丈六の若葉明りの薬師かな

法隆寺の西の端っこの八角堂。

観光客のまばらなこの一画はじっくり丈六の薬師仏を拝することができるが、この時期は特別だ。
堂全体が若葉色に照らされていつもよりも明るいくらいだが、堂は一方しか開いてないので内部の暗部との差が大きくて目が馴れないうちはお堂の中がどうなっているのかすぐには分からない。
だから、真っ暗な空間に丈六仏だけが緑がかった若葉明かりに浮かぶさまは息をのむ美しさである。

虫の夢

尺蠖の隣の枝も測りけり

今日は娘夫婦に手伝ってもらって庭掃除。

おかげですっきりした。しばらくは雑草取りもしなくてよさそうだ。
ついでに混んだ梅の枝を切ろうとしたら、3センチくらいの長さの尺取虫が測っている。しばらく観察していたら、揺れる枝に何かただならぬ気配でも感じたか隣の枝に移って逃げようとする。
黒に赤茶がまじった派手な模様の虫だが、どんな蛾に生まれ変わるのだろうか。
今日はほどよい疲労で缶一本の麦酒で酔ってしまった。
このまま眠りたい進境だが、目覚めたらカフカの虫になってたらどうしよう。

死を身近に

朝掘の筍提げし男はも

句友の訃報が信じられない。

やあ、と言いながら農耕で日焼けした顔が句座につく。高取町の祭りの重役を務め、カラオケ仲間には毎月新作を披露。
今頃は筍、秋ならば里芋やサツマイモを句友に分けるため車に積んでくる。
そんな彼も、1年半ほど前から厄介な肺炎にかかり何度か入退院を繰り返していたが、ふだんの元気な姿が頭にあるのでみんなは句会に戻ってくるのを信じて疑わなかったのである。
それだけに突然の報に一同のショックの度合いは大きい。
句座の平均年齢が高いこともあって、別れはいつでもあるものだということを現実に突きつけられ茫然とするのみである。

艶ある虹

三輪山に夕虹立ちて神さぶる

昨日は若草山、今日は三輪山に。

名のある山に虹がかかれば趣も増す。
とくに今日の三輪山の虹は見事な形、申し分ない色であった。
榛原での句会の帰り途、車窓にそんな立派な虹が立って、一同声を上げるのだった。台風一過とはとても言えない、重ったるいほど湿気がまとわりついて不快な気分を吹っ飛ばしてくれるのに十分であった。
この三輪山の巳さんは好色な神さんとしても知られていて、なんだか、今日は美しい女神を得て得意の絶頂にでもいるかのようにも見えて、なかなか色っぽくもある。
虹にこういう艶っぽい印象を抱くのは初めてで、物語でも生まれてきそうな気さえしてくるのであった。

冷涼とまで

とうすみの灯りにうかむ夜の底

夜の庭に、はかなげに蜻蛉がゆらめいている。

「とうすみ」とは「とうすみとんぼ」のことで、行灯のひも状の芯(とうすみ)に似ているので、灯心蜻蛉(とうしんとんぼ)とも呼ばれる。いわゆる、「いととんぼ」のことである。
夏の季語であるが、どちらかというと晩夏、初秋のイメージが強い。
急に寒いほどの夜、高くは飛べず地の底を這うような感じで、灯りに吸い寄せられるようにふらふらとやってきたようだった。
先日の吉野の句会場では、精霊蜻蛉が群れ飛んでいたし、空気は完全に秋だ。

甲子園

サイレンの尾や少年の夏果つる

今年は100回記念とかでチーム数、試合数が多い。

まだ二回戦だがいくつものチームが消えた。
試合終了のサイレンの尾が引いて、負けた球児たちの夏が涙とともに終わるのはいつもの光景。
優勝するためにはいつもの年より多く勝たなければならないだろうが、猛暑のなかでの連戦が続けば疲労の度はますますつのる。これまでにも、何人もの選手が足をつったりする場面が見られた。
体調を整えながら勝ち進むのも、チームの実力のひとつ。暑さに負けないで最後まで悔いのない戦いを祈るのみだ。

動物を飼うと

シッターを猫に残して帰省かな

今年の夏は誰も帰らないらしい。

わが家同様、猫を飼っているということもあって、まる一日家を空けるのは容易ではない。
動物ホテルにうまく適応できる子たちであればいいのだが、そうではない場合、うまく留守を預かってくれる人に水や食事とトイレの面倒をお願いするしかない。
そんなこともあって、年に一回帰省できればいいほうである。
この盆は爺婆だけの静かな三日になりそうである。

夏の帰省は旧盆のケースがほとんどである。だから秋の季語としたほうがうなづけるのだが、かつては夏に帰るのが通例だったのかも知れない。