黴のズボン鼻先に立つ車内かな
黴拭うてもとの箪笥の肥やしかな
思わず顔を見てしまった。
小便のしみが黴となったズボンが顔先にある。
電車の座席にすわっていたときのことだ。
世の中には、これほどとなっても無頓着なひとがいるのだ。
それにしても、度が過ぎてはいやしないか。
黴が大手を振って歩いているようなものだ。
背広を着ているので、世捨て人とは思われぬが。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
黴のズボン鼻先に立つ車内かな
黴拭うてもとの箪笥の肥やしかな
思わず顔を見てしまった。
小便のしみが黴となったズボンが顔先にある。
電車の座席にすわっていたときのことだ。
世の中には、これほどとなっても無頓着なひとがいるのだ。
それにしても、度が過ぎてはいやしないか。
黴が大手を振って歩いているようなものだ。
背広を着ているので、世捨て人とは思われぬが。
ものみんな逆さに映る植田かな
盆地は青田にはまだ早い。
どの田も空だったり、電柱だったり、家だったり、ふだん気にせず見過ごしているものがみな逆さに映っている。
南北にゆったり裾野をひろげた三輪山も、その全容を田に映したまま、道行く人に従いてくる。
生駒など高いところから見下ろせば、いまの盆地は水をたたえた湖のように見えるかもしれない。
老班の夏至の鏡に映りたる
こんところ急に老人性色素斑、すなわちシミが増えた気がする。
とくに頬の高い部分に多いようである。
意識して肌を焼いた記憶はないのだが、もともと日焼けには弱い質だったので今頃になってその弱点がさらされているようだ。
すでに紫外線はあふれている季節。夏至だからといってこれから注意するものではないが、やはり夏至となるといよいよ盛夏の季節を迎えるのだなと思う。
紫蘇の葉の笊に水切り梅仕事
そろそろ出回る頃と雨をついて産直市場へ。
葉だけパックにつめてたものがスーパーで売られているが、やはり摘んだばかりの地元産のほうが安心だ。
がいして奈良で買う野菜は固くて、とても褒められたものじゃないが、梅漬けに使う赤じそはやはり新鮮さを優先して地元のものを買うことにした。
親戚にもらうばかりだったので、今まで漬けたことがないのだが、今年はどういうわけか梅の実がたくさん成ったので自家製梅干しに挑戦することにした。
梅漬け用のボトルがどこかにあったはずと納戸を探っていると、熟成15年物の花梨酒が出てきたり、去年仕込んで以来放置してあったの梅ジュースが意外にも黴もなくいい味に仕上がっていたり、ちょっとした余録にもあずかり、梅仕事もなかなか楽しいものである。
塩分15%とやや控え目にしてどうか黴がでませんように。
花合歓やまつげこぼるる雨しずく
合歓の花とくればどうしても芭蕉のあの句が立ちはだかる。
象潟や雨に西施がねぶの花
雨に煙る象潟に沿うように咲いていて、伏し目がちの風情に気品あふれる合歓の花であったのであろう。
今日の雨の日、合歓の花を間近に見るチャンスがあった。高く育つ木なのでたいていは下から見上げることが多いのだが、今日はまだ幼木というか若い木だったので手にとって眺めてみた。
まるで、ぱっちりしたお目々のまつげだ。
これが雨に顔を曇らせている美人の愁いのかんばせの小道具だったのだ。
父の日の祝ひも兼ねて地震見舞ひ
いきなりのガタガタには驚いた。
ありがたいことに、いろんな方面から見舞いの電話が。
昨日は、子供たちから父の日だからといって特別何もあったわけじゃない。
まして、すでに父の日のプレゼントはもらっているので、慣れたもんである。
そんなこんなで昨日は音無しだったが、今朝は地震の報を聞いて安否を尋ねる電話をくれた。
東日本地震以来いざというときのために、twitterで安否を知らせあうことにしているが、今回はそれほどのこともないと判断したのだが。
近畿中部と日向灘沖地震は南海トラフの前兆ともいうので、念のため飲み水を買いに走った。
風呂の湯も当面は即日に落とさずに、万一に備えようと思う。
三脚のレンズの先の行行子
名の通りである。
ぎゃあぎゃあと賑やかだ。
どこかと探す手間も要らない。カメラマンの長玉レンズの先を見るだけである。
枯れ葦の先端を器用に両足でつかんで大きな口を開けて鳴いている。
毎年、葦原の半分だけ刈っては残りを野鳥のために残している。若い葦もすっかり伸びたのだけれど、やはり腰の強い枯れ葦のほうを好むようである。