たそがれ

黄昏れて街は黄落待つばかり
黄落の路はひたすら一直線

銀杏は思った以上に長い時間をかけて染まっていくものらしい。

立川の昭和記念公園は素晴らしい黃葉のようだ。今日明日はたくさんの人が押しかけるだろう。
当地でもう一月以上観察しているが、黄落どころか完璧な黃葉でさえまだのようである。
この分でいくと今年は来週あたりからであろうか。
「黄落」は「銀杏落葉」の傍題であることからしても、同じ黃葉する欅、櫟を従えてのダントツの代表である。

黄昏の域に達した身に黄落を重ね見る日々。

ハマの酉の市へ

留守番を客にまかせて酉の市

「ちょっと行ってくるから留守番しててね」

スナックのママがカウンターに客を置いたまま、さっさと熊手を求めに出て行く。
馴染みというか、贔屓の客がついていったので、きっとご祝儀もはずむんだろう。
残された客は水割りを自分で作っては飲み、自分で端末を操作してはカラオケのマイクを握る。
それにしても、このまま店をほったらかして帰ってしまうわけにもいかないし、いつまでこんなことをしてればいいんだろう。

外はどんどん冷えてきたようだし、水割りもどんどん濃くなってきた。

散りようが命

掃かぬまま山茶花風の運ぶなし

山茶花が咲き始めたようだ。

とくに香りが強いわけでもなく、木もあまり大きくは伸びないせいか、椿に比べれば地味とは言えるが、何と言ってもこの花の特徴は、長い期間にわたって咲いては散ってを繰り返すことにある。同時に、株の根元に散り敷いた花びらさえも愛でることができる。
そういう意味では、散ったからと言ってすぐに掃かないことも肝要で、散り積もるまでしばらく放置しておくのがいい。
強風が吹かないかぎり飛散することもないので、お隣への迷惑もあまり心配ないかもしれない。

花は花として、散った花びらの風情がさらにいい。
二年前に大覚寺の庭で見た山茶花の散り様は、今もあざやかに思い出すことができる。

淡雪か

綿虫や日向日陰のあるかぎり
日の影をよぎり綿虫流れゆく
山に日の落ちて綿虫生まれけり

そろそろ綿虫の飛ぶ季節。

いつもの散歩道、日が差したと思ったらぽっと浮かび、光を失えばまたその姿も見失う。
手に取ろうとすれば、ふっと取り逃がし、いつの間にかどこか手の届かぬ方へ。

綿虫は日が傾いた夕方に見ることが多い。日が沈めばいったいどこへ行くんだろう。

愛される神社

神降(かみたち)の山懐の笹子かな

拝殿のすぐ裏に笹子がやってきた。

神の留守とはいえ、拝殿につながる社務所には脱いだ靴がたくさん並んでいる。どうやら企業の安全祈願のために集まった人たちらしい。制服を着た人たちが、拝殿のなかで神妙に畏まって神主を待っているところに、ひと鳴きふた鳴きほどしてどこかへ行ってしまった。神主の祝詞の前の露払いみたいなものだろうか。地域全体が神さびている葛城では、生きているものすべてが何やら神の使いのような不思議な気持ちにさせられる。
一言さんは、願いは一言だけ聞いてくれるということで知られるが、境内には子授けにご利益があり、乳がよく出るという神木の乳銀杏もあってか、遠くからの若い夫婦や地元のカップルが目立つ。山の中腹の小さな神社だが、地元の人たちから大切に見守られている様子が見てとれた。

昨日今日と冬の季語が続く。暦でも立冬は間もなくだ。

風を避けて

おんな坂選りてすみれの返り花

小春ともなれば返り花が見られる頃。

意外な花が、意外な場所で狂い咲くのを発見すると思わず足を停めることになる。
お参りの急階段を避けて遠回りの道を選んだら、返り花のご褒美にあずかったという構図である。
それも、女坂に相応しく小さくて、下手すれば見落としかねない菫を取り合わせてみた。風を遮るような石垣の間にでも顔を見せているのが想像できるだろうか。

ファインダーの笑顔

シャッターを頼み頼まれ梅見客
町内会どっと繰り出す梅見かな

小さな梅林だが、ちょうど三分咲きくらいが主流。

暖かいうえ、休日ともあいまって馬見丘陵公園は、家族連れやらグループやらで大賑わい。
冬の鳥もまだ留まっているので、ルリビタキなど珍しい鳥たちもいっぱいいて、大きなレンズを抱えるようにして陣取る人たちもいる。

梅見

こちらも首からカメラを下げているせいか、シャッターを押してくれと頼まれること二、三度。
寒い日から解放されて、梅を愛でる人たちの表情もゆるんでいる。ファインダーの向こうには、笑顔いっぱいの春の日である。