アフタービート

手力男の舞ふ息荒し里神楽

宮崎県の神楽を奈良で見る機会があった。

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資料によると、一口に宮崎の神楽と言っても、地域によって起こり生い立ちや演目に違いがあり、保存団体だけで200余、奉納される箇所にして350にのぼるという。このように地域性に深く根ざしたのが特徴の一つと言われている。また、神楽を専門とした芸能集団ではなく、地域住民による継承によって支えられているのも二つ目の特徴である。
今回の公演は、熊本県に隣接した県中西部、米良(めら)村の村所(むらしょ)地区のもので、南北朝時代に菊池氏とともに落ちてきたことのある兼良懐良親王の没後神前に奉じたのが起源とされる。ここも夜神楽で12時間舞われるので、演目が三十三番と多いが、今回はそのうち九番がセレクトされて紹介された。
舞台に設えられたたいそう立派な「御神屋(みこや)」、これは神をお呼びする依り代となるもので、その前に舞いの舞台が設けられている。
先ずは、舞台の清めの舞から始まり、そのあとに天照、豊受の大神を勸請する舞、土地を守り浄める舞など神聖にして優雅な「神神楽」四番が披露され、後段は「民神楽」と言って娯楽性が盛られたもののうち五番が演じられた。時間にして、二時間半ほど。中には一演目で二時間を要するのはさすがに途中端折った部分もあるということで、観客も頑張って鑑賞しなければならないが、演じる方々にとっては緩急つけての舞というのは大変なハードワークにちがいない。
総勢二十名ほどの演者が舞方、囃子方を交互に務めるのであるが、これが一晩中続けられると聞くだけで、気が遠くなるような話だ。三日三晩踊り続ける八尾の風の盆は、人の呼吸のテンポに合わせて動作もゆっくりしているからいいようなものの、この神楽というのは時に面を被り荒ぶる神を演じたりするものであるから普段から相当足腰・心肺機能を鍛えておかねばなるまい。

掲句は、民神楽で「手力男神」と呼ばれる演目で、面をつけたまま盛んに舞ながら口上を述べている場面を詠んだもの。一の力持ちの神が天岩戸を引き開ける場面だから、迫力は満点である。
今年の村所八幡大祭での夜神楽は12月17日。山間地の夜だから冷えは足腰にしのび込むだろうが、大太鼓のアフタービートのリズムに揺り動かされ、演者の湯気の立つような熱演を目の当たりにしたら寒さは忘れてしまうかもしれない。

濃き薄き取り混ぜ

リコーダー円墳に吹く小六月

またとない散歩日和、紅葉日和。

例によって馬見丘陵公園だが、園内はもちろん周遊散策路もさまざまな紅葉黃葉に彩られて、おそらく明日は家族連れで大賑わいをみせることだろう。
立冬はとうに過ぎたとはいえ、暖房はまだ入らずに、季材もどちらといえばまだ晩秋のものが多い。紅葉にしても「冬紅葉」にはほど遠く、まぎれもなく晩秋のもの。

どこまで行っても紅葉の景色が飛び込んでくるものだから、いつもより距離が伸びた午後だった。

丸眼鏡かけて

褞袍着て物書きにでもなった気分

「どてら」。関西では「丹前」が通称とか。

かつては、自宅はもちろん、宿でも寝間着の上に羽織ったりして旅情があったものだが、今やもう、よっぽど山深い湯宿でくらいしかお目にかかれなくなった。
家も随分よくなって、すきま風は入り込まないわ、暖房がよく効くわで、重たい綿のどてらなどとうに駆逐され、フリースやダウンの部屋着にとって替わられた。

伊豆の宿などで、丸眼鏡に褞袍着て炬燵にでも入って落ち着こうものなら、ちょっとした文豪気分にひたれるかもしれない。

からからと

柿落葉蹴って散歩へ犬逸る

柿を観察していて分かったこと。

「結果枝は結果母枝より早く紅葉し、早く落葉する」
実の生らなかった枝の葉は、先に落ちた葉が一様に茶色に変化するころにようやく落ちるようだ。

落ち葉は窯変さながらに、葉ごとに微妙な模様な描きながら、しまいには同じような茶というか、錆色というか土に同化していく。
もともと厚い葉なので、落ち葉が積もると意外に嵩があり、手で触れたり足で踏んだりするときの乾いた音が耳に心地よい。
柿落葉を句に詠むには、このような、色や模様、嵩、音、手触りなど五感の要素をふんだんに含むのでイメージが膨らみやすい部類に属するかもしれない。

佳句は、犬がリードを強く引っ張って散歩へ駆け出そうとする様子を詠んでみた。荒い息を掃きながら、勢いよく葉を蹴りだす音が聞こえるだろうか。猟犬なら、もっと面白いのだが黄が重なるので

紅葉はピーク

黄落や一世風靡の大団地

街はいま何処へ行っても素晴らしい紅葉に包まれている。

周囲の山を仰げば雑木紅葉、役所や公園など公的なスペースはこれ以上ないというくらい見事に彩られて、通るたびに歓声をあげてしまう。まして、紅葉を町の木とする地元には楓、紅葉の類いが多く植えられているので、町役場や図書館、体育館が集中している大和川沿いは真っ赤っか。対岸から見ると、錦模様が信貴山にむけて燃え広がるようだ。
とくに見事だったのは、隣町の大きな団地の紅葉で、おそらくここは県下でも最も古い建築だと思われ、街路樹はもちろん、棟の周りの紅葉も4階建てのアパートの屋上に届かんばかりに大きく成長している。
付近のスーパーが次々撤退し、残った商店もまばらで人影もあまり見られないだけに、際だった紅蓮の紅葉がひときわ目に沁むのだった。

日陰の身分

石蕗鞠と咲いて南の陽の恵み
鞠と咲くひなたの石蕗のあてやかに

石蕗の花にはどうしても日陰のイメージがつきまとう。

事実目にするのはほとんどのケースが、樹木の根占、玄関の下植えなどであるからだ。
たしかに、高さにしてもせいぜいが30センチほどで、花の数もそう多くはないのが普通。
ところがである。日当たりのいい場所に置いた石蕗は、身長が倍ほどにもなり、一本の茎にいっぱいの花をつけるのを見ることができた。
良く育つものには、オオデマリのように花が鞠咲きとなるものがあり、目をみはるものがあった。
考えてみれば、もともと葉の色が鮮明な緑であることに加え、花の黄も原色に近いほど鮮やかなので、日向に似合うのは自然なことであり、石蕗にしてみれば今までの扱いはあまりにも不当だと文句の一つも言いたくなるだろう。

日陰の身分から解放された新しい句も詠まなければと思う。
う〜ん、二句目の下五が浮かばない。これじゃないんだな。
つややか、あでやか、、、、あっけらかん?
探そう、言葉を。

汝が鳴けば

波頭波間漂ひ磯千鳥
波しぶき届かぬ溜り磯千鳥

キヨノリ君のブログ「百人一首 談話室」が再開されて、ブランクもものかは、すこぶる快調である。

毎週一首をとりあげて、その作者や詠まれた時代背景、源氏物語との縁を織りなす物語は読むだけでも十分楽しい。
今日は、今週の78番歌「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」(源兼昌)に触発されて、「千鳥」に挑戦してみた。

ところで、「千鳥」というのは知っているようで実はよく知らない。
厳密に捉えると、渡りをする小さな水鳥で、後脚が発達しているので浜や潟などを素早く走るのが特徴をもつものを言うらしい。一方で広く捉えると、シギやケリなど蹼を持たない水鳥を言うようでもあるし、さらには文字通り「千」が示すようにいろんな鳥という意味もあるようである。
78番歌は、淡路、明石海峡を行き来する鳥の声と言うのだからその種類を限定して姿を見せる必要はなく、いろんな水鳥たちという意味に解釈したほうが理屈臭さが抜けていいと思われる。

春には「百千鳥」と言って、いろいろ囀りをみせる鳥たちを美称する季語もある。他にも歳時記には四季それぞれの鳥が取り上げられているので、積極的に詠むようにしたいものだ。